近世城郭「岡山城」誕生
豊臣秀吉による天下統一事業も終わり、全国で城と城下町の整備が促進された時期であったが、今日に残る近世城郭が築城されたのは関ヶ原合戦後のことなので、この頃に築造された天守閣は少ない。岡山城以外では、会津若松城・松本城・広島城などで、中でも岡山城は最も古式な様式で造られた。
宇喜多秀家は、羽柴(のち豊臣)秀吉の寵を受け、その庇護の下で成長、天下統一の合戦にも従軍し、57万石余を領する大大名となった。
築城計画は秀吉の指導のもとに進められた。父直家が手に入れた石山城の本丸を二之丸とし、新たに本丸を東の岡山に構築、本丸北端に天守閣を築いた。このため城は「岡山城」と、同時に整備された城下町も「岡山」と呼ばれるようになったのである。
日本三名園に数えられる庭園は、池田綱政が貞享4年(1687)から14年の歳月をかけて造営した林泉回遊式の大名庭園。
明治2年(1869)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられる。
岡山城はいったん陸軍省の所管になったのち明治23年(1890)、旧藩主池田章政に払い下げられた。その後、池田家の提供により本丸に県立岡山第一中学校が建てられ、昭和になって残っていた天守閣など4棟の建物は相次いで国宝に指定されている。しかし、昭和20年(1945)6月29日、米空軍による岡山大空襲により、天守閣・石山門、そして岡山一中校舎は全焼、岡山城はついにそのシンボルをも失ってしまう。
昭和35年(1960)、旧藩士を中心に昭和39年(1964)着工され、2年後の昭和41年11月、竣工した。木造ではなく、鉄筋コンクリート工法であったが、外観はほぼ旧状どおりに復元された。
そして、現在穏やかな春を迎えた岡山城。





