思想脳労

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日々思うこと

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モノやコトを創る仕事に携わっていると、必ずぶち当たる壁。

人それぞれ考え方が違うというか、それに向き合うスタンスが違うから、また、スタンスが違ってもある程度成り立ってしまう業界なので「正解」はないのだけれど、この問題について時々無性に深く考える時期があります。

仕事が速い人、遅い人。

こう書いてしまうと、仕事ができる人、できない人みたいな区分けだけど実はそうじゃない。

仕事が速くても慎重さが足りない人、よく見かけますね。誤字脱字が多かったり。ちょっと気を配れば気付くことにまったく目を向けないとか。
とりあえず言われたことをやりました的な。でもって、結果、言われたことすらできてないという。

仕事が遅いって感じる人でもその「遅い」の程度にもよりますが、待った分くらいの価値はあるものを作る人もいるし、丁寧な仕事なんだろうけど「遅すぎるだろ」ってこともある。仕事にも「旬」ってものがあるのでそれを逃したら客の興味も減るわけですから。

これは、どちらも「プロ」じゃないよね、と思っちゃうわけです。

仕事してるとよくクライアントさんに「プロにお任せします」と言われる場面に遭遇します。

クライアントさんが「プロ」に求めることってなんでしょう。

素敵なものを作ってくれる。

これ、当たり前のこと。というか大前提。

素敵なものが作れないならそれを商売にしちゃいけない。

よく「クオリティを高いものを作る」なんて聞くけどプロなら当たり前だろ?と思う。

プロと素人の一番の違いは「仕事が速くて丁寧」ってところだと思うのです。

速いだけじゃだめ、丁寧でも遅くちゃだめ。

速くても雑だったら「手抜き、ちゃんとやってよ」と思うし、丁寧でも遅かったら「いつまでやってるの?」となる。

お金を払ってプロに頼む理由。自分にできないこと、もしくは面倒なことを早く綺麗にやってくれること。

お金をもらって商売するならプロとしての自覚は持ってほしいですよね。
仕事は、給料をもらうため、自分が生活するためにしてるって人もいるかもしれないけど、そういう内輪なことはお客様には関係ないし、仕事として提供しているサービスに関係ない。ビジネスは個人や社会の問題を解決し、その対価として報酬をもらうことで成り立つ。

そのビジネスを迅速かつ丁寧にやるのがプロ。
プロ同士が自分のスキルとセンスを競い合って仕事をする。
選ばれるために勉強し、努力する。勝ったものがクライアントに選ばれる。

営業的な戦略も乗っかって仕事が動くわけなので一概に言えない部分もありますけどね。ここまで言っておいてあれですが。。。

速くて一人前。やさしくて一流。

この言葉が身に染みる今日この頃。

なんて偉そうに言ってる僕は仕事が雑で遅い。まだまだ半人前。

日々勉強、日々精進。
時は金なり
西洋のことわざ「Time is money.」から。
時間は貴重なものであって、金銭と同じように大切で価値があるのだから、浪費するものではないという戒め。
時間は無駄に費やすものではなく、有効に使うべきである。
金をきんと読むのは誤り

だって。

時間は無駄に費やすものではなく、有効に使うべきである。
ここがポイント。無駄と長時間は違うので、時間をかけることが戒めではない。

「かね」を「きん」と読めば財である。時は財だ。
費やした時間は財産だ、けして無駄な時間ではない。
効率を求め、省いた時間に省いてはいけないものはないか?
近頃そんなことをよく考えます。

1+1=2 答えは2。

以上。

1+1=2を暗記するように覚える。
どうして1+1は2になるのだろうと過程を考えようとすると、2だと決まってるんだから考える時間がもったいないという。

効率を重視するってそういうことかね?
省いちゃいけない「段階」ってやつがあるんじゃないかね?

自分でやってみて、検証して、失敗してわかることもあるんじゃないかね?

なんてことを考えた今日この頃です。



最近読んだ本の影響も少なからずあるけれど、GIVE&TAKEって言葉は好きですね。

でも、たまに思うのですがGIVE&TAKEを勘違いしてる人いますよね。

勘違い? なのか僕の解釈が他と違うのかわからないけど。

与えるからもらえる? もらいたいから与える?

GIVE と TAKE でしょ。 GIVEする人とTAKEする人がいるっていうこと。

それだけ。

GIVEとTAKEはまったく別の行為だと思うのですよ。GIVEがあってTAKEがあるわけじゃない。

GIVEとTAKEが繋がっていわゆる「GIVE&TAKE」になるのはあくまで結果論。

見返りを期待、もしくは計算して、やってあげる。 ってGIVE&TAKEの本質とは違うと思う。


あるVシネマの中で白竜さんが言ってましたよ。

「見返りっていうんは勝手に返ってくるもんや。貸した、貸したと言っていたら返ってくるのは、恨み、つらみだけじゃ」

ってね。

これ、教訓。
政治とか宗教とかの話をブログなどで書くのはやめようと思っているのですが・・・。

どうしても気になることがありまして。

女優の藤原紀香さんがブログに書いて話題になったという「特定秘密保護法案」。

政府が今秋の臨時国会に提出、成立しようと進めている法案です。法案の詳しい内容や指摘されてる問題点は調べればすぐにわかるのでここでは割愛。

僕のまわりでもこの件に関して(危機感を抱いて?)情報をシェアしたり、自論を述べている人がたくさんいますね。自論を持つことはいいことだと思います。

ただ、その方々の意見を聞いていて、ひとつ疑問が。

日本には「三権分立」っていう大前提がありますよね?

立法・行政・司法。つまり、国会と内閣と裁判所。

立法機関(国会)でこの「特定秘密保護法案」を作り、行政機関(内閣)でこの法案を執行しますよね。で、なにか事が起こって、行政がこの法律を適用したときに、もうひとつ司法機関(裁判所)もこの法律を適用して、検証し、執行しますよね。

当然。

この三つの権力は権限が分立され、互いに干渉したり放棄することは許されないというのが原則です。

なにが言いたいかと言うとですね、みんな「政府が都合の悪い情報をいくらでも隠せる法律!」とか「真実を言ったら逮捕される法案!」とか「真実を探ろうとしたら犯罪者!」とか解釈されているようなんですけど、逮捕=犯罪者ではないのでは?と思うわけで。被疑者ではあるかもしれないけど犯罪確定ではない。判決を下すのは司法機関。

本当に政府が都合の悪い情報を隠すためにこの法案を悪用し、それを暴こうとする人を罰そうとすることができるのか。たしかに逮捕されるっていうのは誤認逮捕にしろなんにしろ気分のいいものではありませんが、必ず裁判は行われるわけで。裁判をせずにいきなり懲役10年とか食らうわけないと思うのですが。

裁判をするってことは、それこそ、そこで「真実」を明かすことになりますよね。

「なにが真実か」ってことを。
「なにが正義か」ってことを。


それとも、本気で「国家ぐるみで隠ぺいするから司法もグルに決まってる!」って思ってるのかな?

僕のこの考え方はおかしいのか?そもそも僕の理解が間違ってる?

詳しい人教えてください。。。



話は変わりますが、札幌マラソンにむけて張り切って練習してたら足を痛めました。

整骨院で治療してきたら「体の左右のバランスが悪いから片足に負荷がかかる」らしいっす。体が歪んでるって。どうやら歪んでいるのは性格だけじゃなかったらしい(笑)

体のメンテナンスは定期的にしたほうがいいですね。心身のバランスを整え、歪みをなくす。

歪みがなくなれば、モノの見方も考え方も、フラットになるかもね。


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いくら量が多くてもそれが自分の頭で考えず鵜呑みにした知識であるなら、
はるかに量は少なくても充分に考え抜いた末に手にした知識の方が価値がある。

                                 ショウペンハウエル(哲学者)  

ネタ帳を持っています。

芸人ではありませんが。

僕が持っているというか書いているネタ帳というのは、「仕事に役立つかなぁー」とか「いいこと言うなぁー」ってな事柄や言葉を小さなノートに書き込んでいるものです。

たまにパラパラと読み返すとなかなか面白いですね。書き込んである言葉も面白いのですが、その時なぜこの言葉が心に留まったのかが、うかがい知れるのもまた楽しい。

「教えるのではなく、学んでもらう。この人から学ぼう、と下の人に思われる人間性」

この言葉、相撲の高見盛関の言葉なんですが、いいですね。とてもいい。

上手くなりたきゃ、上手い人の真似をすれとはよく言ったものですが、自分から学ぼうとする意欲のある人は必ず伸びますね。それは間違いないと思います。自分から興味を持って学ぼうとするぶん、吸収が早い。

高見盛関の言葉を読み解いて考えるならば、人を育てたいと思うなら自分の知識を教えようとするのではなく、真似されるような人間になれというこうとでしょう。
そうすればおのずと伝わると。

あの人みたくなりたい!そう人に思わせることができる人間性を持つことこそが、人を活かし、自分も活かす極意なのかもしれませんな。