広島の話
元、大正呉服店。戦時中は燃料供給場所として
使われていました。
(戦争に使われるため、軍に殆ど持って行かれます。当時お金で物を買うことはありませんでした。政府が発行するチケットで物を手に入れ、全て配給制だった)
今はツーリストインフォメーションとして
使われています。
当時、爆心地で唯一1人生き残った方がいます。地下の資料室に資料を取りに行かれていた方です。
その地下室は、申し込めば見学させてくれるそう。
爆心地から380m地点で、消失した
部分はありますが、当時の姿を残しています。
地下の金庫は無事で、原爆投下の翌日から
業務を再開しています。
当時、国のために、何としても仕事をする
感覚みたいな物が根強くありました。
ただ、銀行を再開したところで、一体誰が利用するのだろう?と思ったのですが、戦争保険なるものが
あり、その保険金を受け取りに来た人が一人だけ
いたそうですw
あとは何もかもなくなり、外部との連絡もほぼ皆無。
当時金庫室には食料なども備蓄されていた為
炊き出しなども行われたそうです。
広島電鉄に乗って少し南東へ下ると見えてくる橋。
ここで原爆投下の当日の写真が撮られています。
一番後ろの女学生の証言↓
「Bちゃんが来とるよ」。米戦略爆撃機B29の機影が支局2階窓から見えた。気にもとめず同級生に告げ、窓際から離れて仕事についた途端に吹き飛ばされた。気絶したが意識を取り戻し、何とか外に出た。
彼女の父親(当時56歳)は大工の棟梁で、彼女の出勤先である千田町の工事現場で仕事をしていた。閃光の瞬間、屋根から吹き飛ばされ、全身火傷を負ったが、幸い深い傷はなかった。父親は同じ町内にいるはずの娘のことが気がかりで、動員先の広島貯金局に向かった。父と娘は貯金局の玄関を出たところで、たまたま出会った。娘の背中に血のにじんでいるのを見て、父は娘の身を案じて泣いた。本人の方が娘より遥かに重い傷を負っているというのに・・・
河内さんが父親の手をひいて逃げようと左手を取ると、父親の左手の皮膚は全部ペロリとむけて取れてしまった。
彼女の父親(当時56歳)は大工の棟梁で、彼女の出勤先である千田町の工事現場で仕事をしていた。閃光の瞬間、屋根から吹き飛ばされ、全身火傷を負ったが、幸い深い傷はなかった。父親は同じ町内にいるはずの娘のことが気がかりで、動員先の広島貯金局に向かった。父と娘は貯金局の玄関を出たところで、たまたま出会った。娘の背中に血のにじんでいるのを見て、父は娘の身を案じて泣いた。本人の方が娘より遥かに重い傷を負っているというのに・・・
河内さんが父親の手をひいて逃げようと左手を取ると、父親の左手の皮膚は全部ペロリとむけて取れてしまった。
(当時の様子が細かく記されています)↓
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/30391571.html




