どこへ行っても 「まぁまぁ」で、
何をしても 「それなり」な自分が嫌だった。
容姿も体型も
めちゃくちゃ良いわけでもなく、
めちゃくちゃ崩れているわけでもなく、
全体的に 「ぼちぼち」。
真ん中位。
丁度いいっちゃ 丁度いい。そんな感じ。
手先が器用で、運動神経もいい方、
美的感覚もあるし、料理も出来る方だから
幅広く色んなことは出来るけど、
突き抜けて出来ることはない。
やっぱり 「そこそこ」止まり。
それに、一つの事を極めたい!と思っても
どうしたってあれやこれやと目がいく。
そんなどっち付かずな自分が
「中途半端」に思えて嫌だった。
「何でもそこそこ
コンプレックス」
どうせだったら、
色んなことをある程度出来る才能より、
何かひとつだけに突き抜けられる才能がほしかったな、
っていつも思ってた。
その方が何かカッコイイって思ってた。
ないモノねだりなのはわかってるけどさ。
それでも そう思ってしまうのは、
「ひとつの事を極めている人はすごい」
という思い込みと、
それが出来ない故の劣等感、
こんな自分を
「これが私」だと認めたくないから。
(認めようが認めなかろうが
どうしたって これが私なのに。笑)
だから、
ひとつの事を極めている人が羨ましかったし、
何かに突出している人が眩しかった。
それに、何よりも
人と比べて「どうせ私には無理だから」
と諦めて逃げていく
そんな自分がたまらなく嫌いだった。
人と比べて羨むことは簡単で、
コンプレックスを言い訳にして逃げていれば
情けない気持ちになることも、
恥ずかしい思いをすることもないしね。
でも、私が望んでいるのは
そんなしょうもない安心感じゃなくて、
自分丸腰、
「私のまんま」で生きていくこと。
こんな自分をあきらめて、
こんな自分を明らかにする。
これが究極の自分への「愛」で、
「ご自愛」ってやつだろう。
何かひとつを極めたいと思うなら、
「そこそこな自分を極めればいい」じゃんか。
それって、言い換えれば
そのまんまの自分を認めるということで、
「自分らしく生きる」ってことだ。
私の場合だったら、
何でもある程度出来る天性を認め、極めれば
生きているうちに 多くのモノに触れ、
体験出来ることが増えて
自分の世界が拡がるだろう。
それが人の役にも立つかもしれない。
何でもそこそこだった天性を認め、極めれば
コンプレックスだった
中途半端さが強みになるだろう。
狭く深く、
何かひとつに突き抜けてはいないけど、
広く浅く
色んなことが出来る。
それが、私の持ち味。
それが、私の自然な姿。
人の姿は良いように見えて、
羨ましく思ったり、妬ましく思ったり、
そうじゃない自分を
踏み潰してしまいたくなることもあるけど。
その憧れの人には無い
「唯一無二の自分」を
「コンプレックス」という形で
知ることが出来る。
だから、
自分だけの「コンプレックス」は
自分だけの「強み」になるのだ。
Nunome.
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