甲斐。
眺め見る山々は紅や梔子色に点々と色づき、刈り入れの終わった田畑はうら寂しからんや乾いた土色を見せていた。
老いたる者や女子供らが遠巻きに見送る中、よくよく調教された軍馬達が、いかめしい武将を背なに土煙を上げていく。
此度の出陣に際して、武田信虎は手駒をかなり分散させた。
駿河の主である今川氏親は用心深く、そして執念深い。さらに真っ向から当たる兵力の強大さのみならず、穴山や大井などの国人をたぶらかす術にも長けている。
今川氏親が相手とあらば、武田信虎は様々な不測の事態を勘案し、厚く手厚く備えなければならないのであった。
配備と軍容は次の様相である。
まず諏訪方と佐久方の警戒がために、板垣信方・甘利虎泰をそれぞれの郷へ留まらせた。次に笹子峠からの敵襲に備えては、岩崎信為と小山田虎親を東郡へ配した。さらに御坂や鳥坂などの南側の峠の監視には、油川信守と曽根昌長を当たらせた。
さきの戦の折、今川は甲斐の懐深くまで攻め入ってきた。そのような事態に備え、身重の蕗と子らを守らせるために、荻原政勝を躑躅ヶ崎武田館の留守居とし、駒井政武を詰城・要害山城へ置いた。
さて甲斐国内の配備が左様にあれば、河内域へ出撃するは手薄な様相かと思えばそうではない。
波木井義実を筆頭とする波木井一族が今川の手中に渡らぬようにすることが最優先であるため、疾風の如くの歩度で進軍する必要がある。
今井の兄弟はまたもおかしな動きをせぬよう目付をする意味で連れていくが、信の厚い諸角虎定と土屋昌遠、統率の取れた隊を持つ楠浦昌勝、原昌俊、馬場虎貞に加え、下総の広い平地で鳴らした騎馬上手の原虎胤など、武田信虎は河内出陣に向けて騎馬の得意な将とその隊を選りすぐった。
武田信虎が躑躅ヶ崎武田館を発つと、道中次々と河内出陣の任を与えられた将らの隊が合流していった。
釜無川と笛吹川が互いを飲み合うあたりである鰍沢口へ至る頃には、此度の総力となっていた。
武田信虎はぐるりと軍勢を見渡すと、おもむろに鐙の上に立ちては太い声を張った。
「者共! ここより先は、馬比べと心得よ。波木井の館まで、最も速う着いた者へ、褒美を取らす! さぁ者共、走れ!」
オォーという雄叫びと共に、勇む数千の脚と蹄が地を踏み鳴らし、土埃がもうもうと巻き上がった。
この様はあまりにも勇猛な光景であったため、「武田勢是悪猛々騎馬隊也」と、沿道の民のみならず、旅の僧侶神職、周国の間者の風聞が後の世に伝わるほどであった。
走れと号が放たれて、将や兵らは銘々に南進をし始めた。
鰍沢口より幾手かに分かれ、一方は川沿いを、一方は山間を、一方は船を奪いて川を下り始めた。
「おぉおぉ、川下りとな! 危のうござりまするな」
馬を駆りながら、諸角虎定はその文言とは裏腹に、げに楽しげに信虎の気を引いた。
「まったくだ。この荒い河の上の船の上なぞ、逃げ場なく矢の的になるだけだ」
すると信虎のすぐ後方にいた小畠虎盛が、軽快に軽口を挟んだ。
「あの者共、御館様に矢が届かぬよう、的になりに行ったのやもしれませぬぞ」
それにてワッハッハと笑う家臣達の声をフンと鼻であしらうと、信虎は馬腹を蹴やった。
「あっ、お待ちくださいませ御館様!」
「いかん、御館様が単騎で最先鋒になってしまう!」
「御館様が波木井殿の館へ最先着なさった場合、褒美はどなたに下されるのでしょう?」
「そんなことを言うてる場合ではなかろう! 早う御館様に追いつくのじゃ!」
「はい!」
家臣達は一斉に馬の腹を蹴やりて信虎の馬尻へ追いすがった。
(13巻まで掲載)