郡内中津森、小山田館。
翌朝。
痩躯という見かけによらず酒が強いらしい武田信直は、朝餉の支度が整うより前には、己が乗騎へ自ら鞍をかけ始めていた。
薪割りをしようと外に出でてきた小山田信有は、その様を見咎め慌てて駆け寄った。
「信直様! お待ちください信直様。まさか今より甲斐へお戻りなさるおつもりで?」
「あぁ。さっさと発たぬと、お前の宿酔いの家臣共に昨晩のごとくやいのやいの言われながら見送られそうでかなわん」
親族衆達は楽しんでいたようだったが、武田信直という人物に対していささか失礼が過ぎたか。それともただ単に大勢賑やかにするのを好まぬという信直殿のご気性からの発言だろうか。
そのように信有が思いあぐねていると、すぐ脇をぴゃあと小さな影が走り抜けていった。
背負った大きな荷物に身を揺さぶられながらも、まぶしいほどの満面の笑みを湛えたそれは雪丸であった。
「叔父上ー!」
ちょっと待てと背なの荷物をつかもうとする父の手を、身を捩ってはするりとかわし、雪丸は武田信直へ駆け寄った。
「準備は万端のようだな」
「はい!」
するすると事が運ぶ眼前の光景に、信有はさらに慌てた。
「お待ちくださいませ信直様! これはいったい何事にございますか」
武田信直と雪丸は示し合わせたように同じ顔をして、まるで文言を作り置いてあったかのようにすらすらと述べた。
「何事の何も、お前も昨日、皆の前で承諾したではないか。元服の儀のために雪丸を甲斐へ行かせると」
「そうですとも父上。昨夜叔父上が仰せになった通り、もしも明日明後日に戦が起こったら、私はそれが終わるまで元服することができなくなります。父上と叔父上のお力になるためにも、甲斐へ行き早急に元服の儀を執り行っていただきたく存じまする」
この糞餓鬼……。
「そ、そうは言うても、今日行かせるとは言ってはおらぬぞ雪丸!」
すると武田信直がため息をついた。
「何を今更。お前が今日の日の出立を承諾したと、皆も俺も雪丸も思うておるぞ。思うておるからこそ、雪丸もこうして荷を背負っているのではないか。かような大荷物、他の者の手助けなくしてどうして造れようものか」
「ですが……」
「くどいぞ信有!」
武田信直の鋭い語気に、信有はぐっと口を噤んだ。その様を見た武田信直は、少しだけ穏やかな声を取り戻して続けた。
「まずは我が屋敷にて小山田家からの客人として迎えよう。身の回りの物や付き人は後から寄越せ」
何とも言えぬ、様々に感情の入り混じった色を面へ浮かべる信有とは対照的に、雪丸は意気揚々として叔父の顔を見上げている。
武田信直は信有を尻目に、己が顔をきらきらと見つめる甥へ問いかけた。
「雪よ、馬は?」
「一人で乗れます!」
「母上には挨拶をしたか?」
「はい、さきほど」
二人がそのようなやり取りを威勢よく行っていると、信有は背後から袴を握られ振り向いた。
するとそこには藤丸がいた。
「藤丸」
「おはようございます、ちちうえ」
寝巻のままのところを見ると、目が覚めて兄が部屋にいないがために、探して回っていたのであろう。
父の袴を握りてその横に立つ弟に気づいた雪丸は、白い歯を満面に輝かせながら言った。
「藤丸、後は頼んだぞ。父上と母上の言うことをちゃんと聞いて、良い領主になるんだぞ」
「あ、はい」
おいおい何の話をしているんだこの子らは。
信有は頭が痛うなってきた。信直殿と同様、雪丸もまた、元服の儀式のために甲斐へ行くつもりなど毛頭ないようだ。こやつは武田の家臣になる心積もりしかない︙︙。
「さてと。では信有、世話になった。またいつか見えるときまで達者でな」
信有は口の端片方だけをきゅっと上げると、それからごく浅く頭を下げた。
こうして、武田信直はわずかな供と小さな客人を連れ、甲斐の国へ帰っていった。
(12巻まで掲載)