花がほころび春めいてきた頃、京より甲斐の国へ使者がやってきた。
武田信直達の読み通り、今川は甲斐へ仕掛けてこなかった。
京の雅な香りをゆるりと連れて、この山深き甲斐くんだりやってきたのは、室町殿の幕府の要職である政所執事の伊勢貞忠と、武家伝奏を務める公卿・広橋守光であった。
恭しくも格式高い伝奏の儀が厳かに行われ、これにて武田信直は晴れて従五位下に叙せられるに至る。
このあたりの者が「伊勢」と氏を聞いてまず真っ先に思うのは、相模のあの伊勢宗瑞の「伊勢氏」である。
しかしながら、確かに遠戚ではあるらしいが、伊勢貞忠は袖の内より何やら雅な小物を取り出し、それにあしらわれた対い蝶の家紋を指さしながら、「だいぶ昔に流れは離れています故」などと言ったのち、相模の伊勢の話題はそれきりとなった。
どうやら幕府の要職にある伊勢貞忠は、遠戚とはいえこちらの地にて「他国の逆徒」などと呼ばれる相模の伊勢氏と一緒くたにされたくはないらしかった。
武田信直は京からはるばるやってきた使者を、それは手厚くもてなした。
宴を開き、遠路のお疲れを労い、館の外へ輿を出しては甲斐の野に咲く花や花を見せ、賑々しい甲府の街を見せ、連歌師を呼び歌会を開き、心行くまでお留まり頂いた。
お帰りの途に就く間際になって、広橋守光からは当今の帝の即位礼のたしになったらしい武田信直からの献金の礼と共に、「今後もよしなに」という言葉を、伊勢貞忠からは新しい将軍への援護要請らしい「今後もよしなに」という言葉をそれぞれ受け取った武田信直であった。
お二方とその従者、そして帝と室町殿への土産を渡し、腕の立つ甲斐武者が護衛にぴたりとつくと、一行はゆるりと京への帰途についた。
遠ざかる一行の列が見えなくなると、武田信直は首を鳴らして肩を回した。
「あぁ、やっと終わった」
行儀良う振る舞う連日によほど疲れたのだろうか、信直が深いため息をつくと、土屋昌遠は苦笑しながら主を労った。
「お大変にございましたな。しかし使者の方々も信直様のもてなしにきっとご満足されてお帰りになったことでしょう」
「そうでなければ困る」
ぶっきらぼうにそう返してからすぐ、信直は思い出したかのように振り返ると土屋昌遠へ言った。
「土屋、俺はこの機に名を改めるぞ」
「おぉ! では鎌倉殿か、もしくは帝よりお名を賜るのですね」
「いや、此度のような面倒はしばらくいらん。それにすでに名は決めてある」
「はっ、承知いたしました。それでは御名を改める儀も執り行わなくてはなりませぬな」
「儀式はそれだけではないぞ。小山田から預かっている雪丸の元服が日延べになっていただろう。今川が攻めてくる気配がない今、まとめてやってしまおう」
合理的な信直らしい思い付きである。土屋昌遠はそのように思いながら頭を垂れた。
「承知いたしました」