ぬかてぃの野球の話がしたい!

ぬかてぃの野球の話がしたい!

Twitterでダラダラと話していた野球ツイートをこちらで真面目にやろうと考えた結果、始めました。基本的に観てきたものとニュースサイトが全般です。プロ野球の結果とかはあんまり話しません

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現代において野球というものがすごくできる人とルールすらまともに知らない人、という二極化が進んでおり、今まで「おのこなら誰もがすなるスポーツ」としての野球が崩壊を迎え、誰もから選ばれるスポーツではなくなった、言い換えれば野球の多様化、というものが本格的に迎えられるようになってきました。

これは一介の野球ファンとしては中々に由々しい問題ではあるのですが、裏を返せばスポーツ選択の余裕が出来た、という見方も出来、日本におけるスポーツの在り方が変質している事の象徴の一端でもある事は間違いありません。

野球が選ばれるスポーツではなく、選ぶスポーツになった。

これは今日本がしっかりと抱え込んでおかねばならない問題提起として捉えていくべきではあると思います。

 

その中でこういう意見もちらほら出てきています

 

【今、野球と子供は。】いつの間にか消えてしまった「野球のすそ野」

 

低年齢層に野球を教えよう、という方向性が表れているように思います。

勿論子供のころから野球に親しみを持てる場所にある事、というのは価値性を持つものである事は確かなのですが、個人的にこの方向性、あまり良いとは思いません。

というのも、野球というのはサッカーや他スポーツとボールの関わり方が独特であるからです。

 

サッカーにおけるボールの規定を観て観ましょう

5号 68~70cm 22cm 410~450g 一般・大学・高校・中学校用
4号 63.5~66cm 20.5cm 350~390g 小学校用・日本サッカー協会規格
3号 58~60cm 19cm 300~320g 小学校用
フットサル4号 62~64cm 20.5cm 400~440g 一般・大学・高校・中学校用
フットサル3号 58~60cm 19cm 350~390g
小学校用

 

moltenさんからお借りしています。http://www.molten.co.jp/sports/jp/football/ball_standards/

 

基本的にその年齢の脛大ほどの大きさというものを想定しており、また、芯も小さいものではありません。

しかし野球ボールは大きさに変化がない、というよりは単純に大きさ、固さ含めてあまり小学生に適しているとは思えません

学童低学年 D号 64.0~65.0 105.0~110.0

 

mizunoHPよりお借りしました。https://www.mizuno.jp/baseball/rule/rubber_ball.aspx

これは別に学童低学年にやらせてはいけない、というものではなく、小学校でも中学年以降の、身体が形成される以前にボールの小さな球技をさせるのはどうか、という考えに基づきます。

というのも、ボールの形状が小さくなるとどうしてもボールの力が集中しやすく、ぶつかった時などのダメージが大きいからです。まだ内蔵の形成すら危うい一次性徴前に野球を教える、というのはいささか危険ではないか、と思わずにはいられません。

言い方は悪いのですが、ゴム製の少し大きめなボールごっこでボールを投げる楽しみを覚える、くらいの段階なのだと思います。ボールを握れる、握力というものを意識できるくらいの年齢まではむしろ危険なだけではないのか、と思います。

 

幼稚園や学童低学年での野球、というのはスポーツの楽しさよりも、危険性が勝るのではないか、という疑問を覚えずにはいられないのが正直なところです。まだその年齢はどのスポーツ、という状況というよりは球技そのものの楽しさを知ってもらう段階の年齢。学童向けの1デイコーチみたいな存在がいるのを可としても、それを教室のようなビジネスまで持っていく、というのは甚だ難しい賭けなのではないのかなあ、と思います。

 

むしろ、それ以上に不安な要素が、その年齢から青田買いの様な事をし始めると、野球以外球技の出来ない子を増やす原因にもなりかねない、と思うのです。

 

「野球バカ」という言葉があるように、野球以外の球技はからきし、という人間は少なからずいます。

それ自体は悪い事ではないのですが、例えば体育の指導要綱から離れるようにも思うのです。

文部科学省の小学生における体育指導要綱にはこう書いています

 

  • (1) 簡単なきまりや活動を工夫して各種の運動を楽しくできるようにするとともに,その基本的な動きを身に付け,体力を養う。
  • (2) だれとでも仲よくし,健康・安全に留意して意欲的に運動をする態度を育てる。
 
このスタンスと真向とは言わずとも、反する行為になってしまうのかな、と思わずにはいられません。
野球「だけ」上手い子を作ってきて、野球部にいたから消えていった才能ある子、というものを殺すとまではいかないとも、その児童の中で選択の幅を減らす原因になりはしないか、という印象を覚えずにはいられません。
 
これは私見なのですが、ある一定のスポーツを楽しむ学童があらゆる中で特定のスポーツを選択できる環境、というのが大切と考えていて、今のこの学童低学年からの野球、というのはその考えに真っ向反対のスタンスを取る事になってしまいます。
むしろ「今、野球は選ばれるスポーツではなくなりはじめたから低学年の頃から野球を植え付けよう」という、前述した青田買いのように映ってしまい、むしろ二極化を激しくする要因になりかねないように思うのです。
そうなれば今以上に「野球に興味ある層」と「野球に興味のない層」の二極化が進んでしまい、スポーツ文化という点で今まで以上に世界から取り残されかねないし、なにより選択を子供の頃から決めさせるというギルド化を強くさせてしまい、スポーツ元来の「楽しみなどを見つけて自発的運動を促す」という点から完全に遠のく結論になってしまいます。
それは健全なスポーツの在り方とは到底思えません。むしろ、なお野球の二極化が深まる構造を作ってしまうのではないか、という懸念素材 さえ生んでしまいます、
 
上記二点から、私は学童低学年などの野球教室などは反対の立場を取ります。
 
今日本で野球を「選んでもらうスポーツ」として形成していくためになにが必要か、という点に関して言えば、色々なポイントがあると思うのですが、現行のイベントで面白いと思うのがキャッチボールクラシックのような、老若男女問わない野球のイベントではないでしょうか。
 
 
野球を今までやってこなかった、観る側だった人がグラブとボールに触れるきっかけを作り、「スポーツ」ではなく「遊び」として野球を迎え入れる環境を整える必要性が日本には急務であると思います。
 
球場に通うプロ野球ファンのいくらが「キャッチボール」をした事があるか。
球場に通っているファンの生活の中で野球は「スポーツとして」近い存在なのか。
 
ここをまず問う必要があると思います。ここが解けていないと今後の野球発展はありえないのではないでしょうか。
「下手だけど野球を観るのもプレーするのも好き」な人を増やすこと、すなわち「野球にいい思い出」のある人は野球を憎くは思わないはずです。そうなる事によって野球を人から人へ伝播する可能性を広げます。それが野球人口を増やすきっかけになると思うのです。
そこから人口を拡大し、理想としては親から子供へキャッチボール、という流れを生む、という事が今日本の野球に求められる事ではないかと思うのです。いいコーチングはその次の段階です。コーチングが原因で野球が嫌いになってしまっては元も子もありません。
 
その「日本と野球」の関わり合い、という事が今の野球に求めらているわけで、正直、この記事は的を外しているように思います。むしろ少なくなる原因にしかならない。
だとするならば、プロアマ問わず、どうやって野球を好む人は野球を好まない人に接していくか、ここが問われる事になるのです。
 
そこを解決していくことが、野球人口解消のきっかけになるのではないでしょうか。

昨日、ツイッターにて、誤審を騒ぐツイートを見て、個人的見解を述べました。

そのツイートには画像が貼ってあり、三枚ともミットに収まるボールのシーンで、それが全部ストライクと判定された、というものでした。

 

うーん。

個人的見解を申しますと。

 

キャッチャーミットにボールが収まったポジションではストライクかボールか、というのは判断できなければ、それを誤審と証明するものもなく。

それを果たして誤審と言っていいものか。と反論を自分のツイッターでツイートしました。自分のチームかわいさに猛り狂うという気持ちも分からなくもないため。

その後、変な事があったのでまあ、一旦片付きはしたんですけどね。

 

その時改めて思いました。

観客はどこまで審判や記録員という面々を指摘していいのか、という事に。

 

確かにファンはかわいさあまって微妙な判定に「誤審」と平気で言ってしまう傾向があります。前述したとおりここの気持ちというのは分かるのです。

ですが、もし仮に誤審だったとして、審判や記録員はわざわざ誤審を選ぶのか、という疑問を覚えるのです。

なんていっても彼らだって仕事なわけで、本人が人間である事を踏まえたうえでも出来る限りジャッジを公平にやろうとしていると思うのです。

というのも、このご時世どこかに贔屓のジャッジをしてもうまみがない。特にSNSなどで言葉が拡散される現代で、そんな事を行おうと思う人はいないと思うのです。

 

その中で、自分の推しへの愛情のために平気で

「あいつは誤審審判」

と言い切ってしまう姿勢というのはいかがなものか。

 

我々は観客です。

 

観客だからこそ、一つのプレーにおいてその正当性を審議する権利を有していると思います。

しかし、だからといってその審判や記録員を「誤審やろう」と貶める権利はないと思うのです。

人間がやる以上、どうしても癖や間違いが起きてしまいます。それが人間がやるスポーツというものです。

感情的になるあまり、理知を失う、というのは違うと思うのです。

 

今、野球は人に選ばれるスポーツではなく、人が選ぶスポーツへと変換しています。

とりあえず野球、ではなく、選択の中から野球、という時代になっています。

 

その中で、観客一人一人も、自分の言っていい権利と越権というところを考える時期がきたのではないかなあ、と考えました。