愛されなかった、愛情が薄かった家庭で育った子供は愛を育てることを知らない。
私ね、この数年間で人って・・・て思うことが何回もありました。
なんでしょう、今の状況を説明すると、虚しくも思えるし肯定もできる、悲しくもなるしこれでいいのと感謝
も出来る。
そして、思うのは人にはそれぞれの人生の学びが違って、違うということを理解するということ。
『どうして?どうして?どうしてそんなことが出来るの?あなたがそうすることで相手はどう思うのか
感じれないの?』
人にはそう思えるけど、私自身も相手を思いやれていない事だっていっぱいあるの。だから、
相手も同じ、バロメータや感じ方場面が違うだけのことなの。
そのなかでもなぜ?なぜ?って思ってしまう事が深いのは、幼少期に愛されなかったもしくは
愛情が薄い中で育った人達。
そんな人達と話すとなぜかしら・・自然と会話をしていてもなにかストレートに心に入ってこない。
私自身が愛情について何か知っているのかといわれても堂々と答えるだけの答えはまだ見つかって
いませんが、ただ・・感じるのです。
なにか薄さみたいな、サラサラとした感じで言葉は話し相手の望む答えを上手くチョイスして話しを
しているだけのような。確かに一見会話すると笑いも出るしむしろ会話が上手いので面白いように
感じるので、きっとその会話で満足できる人にはその部分で関係が成り立つのでしょうけど、
なにかがおかしい。。。
なにか心に残らない。信用性が薄いといいますか、会話をしていても適当な部分が見えてしまい、
こちらが打っても響かない状態なのです。
その薄い関係で楽しめる関係性なら問題ない人です、仕事やプライベートまでに近い関係性に
なってくると段々とこちらも『なぜ?なぜ?』と自分自身と付き合う事になっていきます。
私は人の行動や心を読めるわけではないのでそうやって『なぜ?』から入らないと解決や理解は
できないのです。
愛を知らない、愛情が薄かった幼少期を持つ人を悪くいうのでは決してありません。
私が『なぜ?』と思うきっかけをくれたので沢山の経験や感じ方の違いを教えてくれたのです。
でもね、言います。 『その行為は悲しいよ。』
怒りでもありません、憎しみでもありません、悲しみです。
その行為を続ける未来はどこも悲しいのです。
本人自身は自分の言葉や行い一切が自然なのです。だからこそ気づく事がないのです。(ごめんなさ
い。勝手に決め付けるような言い方になってしまって。。)
一生をかけて愛を上辺だけで生きるのかしら? だって愛を知らないのですもの・・・
欲、利害関係、お金、自分。
見えてくるのはそんな事ばかり。 じゃまするもの、自分のそれに当てはまらない者は捨てる排除する。
それで人生上手く行くのはきっと一瞬。
気づいてください。どうか恐れに立ち向かってください。
私も偉そうなことは言えませんが、愛情を知らないのは本人の気づかない時期から始まっていて
本人に責任が問えない根深いところからの発端と思ってしまうので、余計に辛くなるのです。
時々私は『どうしてこんなひどいことをしてくれたの?』とその人ではなくその人を育てた親にいきどおりを
感じるのですが、それもその人がこの世で学ぶものがあるからこそこの道を今通っているのでしょうね。
そう理解して私は何をするか。。。
私はどうありたいか。 その人達と接する時、私の心はどこに置けばいいのか。
同情でもない、感情で考えるのでもなく、じゃあどうしたらいいの?ってそれは今でも解からなくなって
しまいます。 でも、同情でもなく、感情で考えるものでもない事。
『理性』 なんでしょうが、私自身が理性を強く持てないこともあって感情が先にきてしまったり、情が
入ってしまって片側からしかその人を見ない、見えないようにしてしまう弱さがあるので
本当に自分自身のコントロールが困難なのです。
頭で理性をわかっていても、感情があって、なかなか理性どおりの行動がとれなくなるのです。
愛を知らない・・なんて人の事を言っている場合でもない、もしかしたら私もその一人なんではないかと
自分の親の愛ってなんだったのかを思ってみたりもするので愛を知らないとここまで色々と
書いてきましたが、その人達は私の反面教師だった思います。
だからこそ今は理性が勝ちたい。 そんな自分に一歩でも近づきたい。
強い自分になりたい、自分から輝く人はだらだらと負けていかない、自分に厳しさを持っている。
反面教師は自分、だからこそ愛を育てる人になりたいし、未来を悲しくさせる事はしたくない。
理性が勝つための一歩。
未来への種まき。
そう気づかせてくれた半面教師の人にも感謝とどうか死ぬ間際に幸せだったと言える未来に・・
そうあってほしいです。