valentinoのブログ

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イエス・キリストと出逢って

 

 僕は平成14年2月に警察に逮捕され、留置場に収容されていたのですが、事件のことで納得できないところがあり、一部否認していたところ、刑事が20年以上、音信普通であった母親と妹を警察署に呼び出し、私の数々の悪事を暴露し、まったく何も知らない母と妹は事件に関する話を聞き、号泣していると留置課の署員に聞き、私は刑事に対する怒りでいっぱいでした。


母たちに過去のことがばれ、絶望のあまり目の前が真っ暗となり、自殺を考えたのですが、いざ実行しようとすると怖くてできないのです。自分はなんて情けない人間なのだろう。死ぬこともできないと、悶々としていたところ、私がいる部屋に日系ブラジル人が入ってきたのです。彼はとても明るく、毎日お祈りをしていました。今まで私が会ったことのないタイプの人で何か引かれ、互いによく話すようになり、心と心の交わりというか、気持ちが落ち着きました。彼は良く私に、マタイの福音書5:27-30の「あなたがたも聞いているとおり、姦淫するなと命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」というみ言葉を言っていたのですが、私には何のことかさっぱり分かりませんでした。

 

 その後、私は拘置所に移送され、彼とは別れたのですが、不思議にも聖書がとても読みたくなり、職員に申し出て聖書を貸して頂いたのです。その聖書は国際ギデオン協会の新約聖書でした、はじめ、人の名前ばかりで、ましてはカタカナであり、何じゃこれはと思いましたが読み進めて行くうちに、何だか嵌ってしまい、毎日、貪欲に読んでいたのです。     最初から何回も読み始めていました。


そんなある日、今までも何回も読んでいたところなのですが、使徒言行録9:4の「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というみ言葉のところで「ヴァレンチノ、ヴァレンチノ、なぜ、わたしに罪を犯すのか」というみ声を聞いたのです。私はとても恐ろしくなり、号泣すると共に体がわななき、生まれて始めて、心から神様にごめんなさいと祈りました。

 

 それから、自分の犯した罪に関して神様に祈り、聖霊さまの導きの下、示して頂いた罪を一つ一つ神様に告白したところ、便箋3枚になりました。


そして、ヨハネの手紙1・1:9の「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。」とお祈りしたところ、心を水が洗い流すような感じを受けたのです。感激のあまり、あふれる涙でいっぱいでした。


神様は、親や親族に見捨てられ、誰もいなく孤独な私に、身元引受人としてS弁護士を与えてくださり、私の信仰の母であるマザーテレサの会のシスターとも出逢わせてくださいました。その後、私は刑が確定し、G刑務所に移送されました。


刑務所の中では、養護工場にて刑務作業をすると共に、24時間体制で認知症・身体障害者・高齢者等の下の世話・入浴・着替えなどの様々な介護をしてきました。彼らは、孤独で、因業であり、とても心の頑なな人たちが多く、愛に飢え、義に飢えていました。本当は寂しいのに素直になれないでいるのです。決して自分の弱さを見せることをしないのです。自分の弱さを同囚に見せるといじめにあうのです。惨いいじめを見ましたが、私には何もできず、助けてやることもできませんでした。自分が、いかに愛がない人間であるかということを嫌というほど知りました。関われば自分がいじめを受ける対象になるということを恐れたのです。だから、見て見ぬふりをしていた卑怯ものなのです。しかし、そんな私にも拘らず、いじめを受けた同囚は、私に優しく接してくれました。


その中で、イエス様の愛を徹底的に学ぶことができました。受刑中、色々な試練がありましたが、毎日聖書を読み、祈ることで助け、支えて頂きました。聖書のヘブライ人の手 紙12:5-8に、「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛するものを皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。」というみ言葉が、とても心に響きました。


この受刑生活を通じて、神様から多くの恵みを頂き、お金では買えない最高なもの永遠の命を賜りました。極悪非道な私にも関わらず、とこしえの愛を持って慈しみを注いでくださると神様は言ってくださるのです。神様の愛に、唯々感謝です。


聖書のローマの信徒への手紙5:3-5「そればかりではなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。まさに真実です。アーメン。


私はイエス様が大好きです。だから、同囚にもイエス様のことを伝えました。なぜなら、イエス様しか、受刑者を罪から解放できないからです。罪はアリ地獄と一緒であり、そこで、どんなにもがいても抜け出すことができないのです。彼らにはサポータが必要なのですが、誰もいません。今の刑務所は矯正施設では犯罪者養成所となっているのです。だから、再犯率が高く、減少しないのも当然だと思います。私がイエス様を伝えた人の中から何人かが、神の愛の宣教者会のシスターや神父様・牧師様と交流(文通)を続けていることに神様の導きを感じてなりません。


私は、受刑中から神様に「あなたの平和の道具としてください。私をお使いください。闇の中にいる人々にイエス様のことを伝えさせてください。あなたの愛を実践し、キリストの光を輝かせるものとしてください。」とお祈りしていました。その中で、マザーテレサが「日本にもカルカッタがあります。愛に反するものは無視・無関心です。」と言っていたことを思い出しました。彼女は自らスラム街に行き、キリストの愛を実践した人でした。私にとってマザーテレサは信仰の母です。イエス様と出逢った当初、彼女の「マザーテレサ・あふれる愛」を読み、マザーにキリストのことを教えてもらいたいと強く思ったのですが、天に召されていたことを知り、残念でなりませんでした。しかし、マザーの娘たちであるシスターたちと逢い、貴重なことを学ぶと共に教えて頂きました。そして、社会復帰後はキリストの愛を伝えると共に矯正施設(刑務所など)にいる人たちの更生支援と社会復帰後の支援をしていきたいと考えるようになり、身元引受人のS弁護士にも神様からの呼びかけかどうかを相談すると共に私自身、神様にも答えを求めて、祈り続けました。神様のみ心なら必ず導いてくださると信じ、日々祈りました。


その後、2011年12月30日に私は、キリストによって社会復帰し、キリストにこれからの人生をゆだね、一歩を踏み出しました。初めて教会に行き、嬉しくてしかたなく、神様に感謝し、獄中で祈っていたことの答えを尋ね求めました。その結果、神様は「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」という聖書(イザヤ43:19)のみ言葉を頂き、受刑者伝道含めた、このビジョンは神様のみ心にかなっており、神様がすべての道を開いてくださると私は信じることができました。いばらの道だと思いますが、イエス様が共におり、一緒に行動してくださっていると感じてなりません。神様は民間非営利団体「マザーハウス」設立準備に当たり、神の愛の宣教者会でボランティアをしていた女性と出逢せてくださり、私の生涯のパートナーとして与えてくださいました。彼女の素直な心、優しさに魅かれ、神様の粋な計らいに心から感謝です。


そして、多くの受刑者、闇の中にいる人たちがイエス様と出逢うことを切に願い、至る所でキリストの福音を述べ伝えていきたいです。常にキリストに熱く燃える男でいたいです。ガラテヤの信徒への手紙2:20「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」とあり、誠に真実であります。神様に感謝です。

          ニコラウス・テレサ・ヴァレンチノ