2024年 7月16日 火曜日 11時2分

(なないろ 7色 🌈の日)に 母は息を引き取った。



ちょうどその日は訪問看護さんが来てくれる日で


父と姉と私と訪看さんと孫はLINE電話を繋ぎながらの5人で

最期の時を…



7月に入り食欲も急に少なくなってしまった母でしたが、お気に入りのトッポキや、塩辛ご飯のお粥なんかは美味しそうに食べていたな。。。


最期に口にしたのは、イチジク。

父が、お母さんイチジクが大好きだったよと言って買ってきたそのイチジクを半分美味しそうに食べていた。。


右前頭葉膠芽腫 最初は左半身麻痺からの始まりだった。


最期に病院でCTを撮ってもらったのは、5月30日 右にあった嚢胞が左側にまで広がっていた。左の脳は脊髄と繋がっているので、腫瘍が脊髄を通って身体をめぐってしまうことも考えられる。。。とのお話だった。

そして、前回の抗がん剤を最期に薬の処方も終わりにしてもらった。


母は、本当に食べるのが大好きだったのだけど、前回の抗がん剤後、吐き気により数日食欲がなくなってしまっていたから。


最後まで楽しく美味しいものを食べてもらいたいという思いは家族一致の思いであったからね。



この頃から訪問診療の先生に診察をしてもらう事にした。

偶然なのか、痛みのクリニックの先生で、身体の痛みを和らげるためのプロ👏


脳腫瘍による痛みはだいぶ和らいでいたのではないかな。。。



ずっとベットに寝たきりになってしまった母は動かないことによる、関節の痛みを訴えていたけど、数時間毎に少し身体をマッサージする?動かすことでその痛みも軽減できていたのではないかな???と思う。



痛み止めにより、意識がハッキリしない時間が多くなり…水分がとれなくなり…

13日朝 嘔吐が始まった。もう何も食べていないし、飲めていないから

黄色い胃液や緑色の担汁を吐き続けていた。


この時が1番苦しそうだった。。

ちょうど13日は土曜日で、孫たちにも連絡をし、顔を見せてくれた。


目を開けても焦点が会うことは少なくなっていたけど、瞬きをしたり、小さくうなづいたり返事をしてくれているようだった。


足先は冷たくなっているのに、熱が38℃以上あり息が苦しそう。。


訪看の方が、とにかく頑張って心臓を動かそうとしているんですね。と言っていた。


生前母は、とにかく痛いのと苦しいのは嫌だからーーー!!と言っていたけど、

見ている側としては、どんだけ頑張り屋なのーー😭  お母さんがんばれーーーって声をかけるしか無かった。



頑張った先にまた、平穏な時間があるのなら…もっともっと応援したけど。

ここまで来たら、母が迎えるのは静かな時間なのだ。と分かっている。




もういいよ。頑張ったよ。という思いと…

もう少しだけ、もう少しだけ頑張って。とい思いが…。


今まで頑張ってきた母に、まだがんばれーと声をかけて、温かい体温を感じていたい。。


昨年の11月から、両親と共に過ごした時間は本当にかけがえのない時間だった。

沢山の人に迷惑をかけての決断であったことは分かっていたけど。。。

母とは沢山の話をした。笑ったり泣いたり…

ほんとにほんとに宝物。


そして、ドリームキラーだと思っていた母は、いつも私を応援してくれていたꉂꉂ📣


なんなら、大好きでいつも応援してくれている父の言葉に縛られてるやーんわたし!!!みたいなことに気づいたり😅💦


この先の私の人生にとっては、ほんとに大切な時間だったなーーー。




梅雨もあけ、ほんとに太陽のような人だった母は、沢山のお友達に見送られキラッキラのお日様となって私達を見守り続けてくれるのだと思う。



大好きなお花に囲まれて笑顔の母はほんとに幸せそうだった🥰


心にぽっかりと穴があく。というのは

こういうことを言うのだな。。。



最後のさいごまで、

お母さーん!!笑って!!!と声をかけ続けてきた。

私も口角上げて、笑顔になって

しっかりと私の人生歩んでくよーー😍


そして、お母さんがずっと心配していたお父さんのこと!!

姉弟3人でちゃんと面倒見ていくからね!!

大丈夫!!心配しないで!!!



大好きなお母さん!ほんとにほんとにありがとう。これからも見守っていてね💝