講演とシンポ”初期稲作の担い手は・・・”⑥ 最終回 | しもちゃんのブログ

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最終回は下條信行氏の「生産具(石斧)からみた稲作開始期の農耕荷担者」です。

下條氏は愛媛大学名誉教授で、今も準現役的な日々を過ごしているらしい。


九州大学のあと、福岡市教育委員会、古代学協会(平安博物館)、西南学院大学を経て、愛媛大学とあちこちを転々。


考古学が渡来人問題に参戦するのは大正の前半期で、その時から今日まで、大陸から伝わったと考えられる新しい磨製石器の故地探しと評価が中心的課題であった。ことに農耕に関わる石斧類が中心であった。

 その成果を総括する形で総合評価がなされたのは昭和10年代前半で、「これら石斧類を使う農耕従事者は渡来人」であると。それいご、この路線は堅持され、戦後はさらに強化されて今日に至り、今でも本屋さんにはこうした見解の類書、啓蒙書が売られている。


しかし実は昭和10年代後半にはこの説、特に伐採石斧の認定に関して異論がだされていた、長らく等閑視されて来たが近年の膨大な新資料はこの異説が正しいことを証明している。



簡単に言えば、列島において初期水稲耕作が展開されるに際し、半島に高度に発達していた身の厚い伐採斧は受容さえず、縄文系譜の石斧対応していた。大地を開き、造田し、また住地を開発し、多量の堅い用材を確保するにもっとも必要な武器は伐採石斧であるが、それに適した高級品ををわざわざ受容せず、薄くて軽い縄文系石斧と使うのが在地人を置いて他にはありえない。

また、こうした石斧を使うので半島の高速開発システムを導入できず、スローな開発に留まっている。


こうしたことから、開発現場、労働現場で中心的に農耕実践を行ったのは縄文人で、「これら石斧を使っての農業従事者を渡来人」とは言えないのである。


もっとも列島の初期水稲耕作を進展させる農耕総体に於ける、渡来人の役割については、別の角度から評価する必要がある。



なお、シンポのコーディネーターを務める溝口孝司氏は九州大学大学院教授であるとともに、世界考古学会議の第6代会長でもある。