海の古墳が考えるⅡの二日目はチャーターしたフェリーに乗っての海からの古墳遠望、多島海の地形の複雑さ、流れの激しさと多用さ、瀬戸通行の難儀さの体感日である。80名強が参加。
今治港を9:30に出航したフェリーは第2かんおん丸、291トン、広島からのチャーター船。
相の谷古墳→来島(中世来島村上水軍の居城)→妙見山古墳→広島県大崎下島御手洗(昼食)→愛媛岡村島正月鼻古墳→鼻栗瀬戸→甘崎城(中世水軍の城)、多田羅古墳など芸予諸島の一端を巡って16:00前に今治港に帰港。
出航後まもなく、左手に相の谷古墳群。愛媛最大の80m強のこの古墳の後円部頂上には予めこのエクスカーションに対応して白旗が掲げられていたので、ここは容易に認識できた。丘陵の最高部にあり、崖の上。ずっと続く崖と浜のなかで、背後は山で前は海という臨海に特化された立地で、古墳の立地論が単純水系論は単位平野論では説けないことを海から確認した。
では何のため。その一案として灯台論があるが、それは航行側からみた都合論で、その背後には畿内中心論がある。これは燧灘の西端という領海論(背後に在地平野という裏付けがある)で考えたらどうか。
相の谷古墳を過ぎ、燧灘と斎灘を分ける大角鼻(おおすみばな)を海から確認し、やがて大西湾に進入。湾内の妙見山古墳の石室石材の採取場となった弓杖島より更に奥に進入の予定であったそうだが、浅くてそこまでは行けず、はるか4km沖合から妙見山古墳遠望。
この時、ケブッテいて、もう少し明確成らず。航行しながらでなく停泊状態で探すが当初、なかなか捉えられず。前面にドックのクレーンが沢山林立しているのが邪魔だと皆がブスブス。
それでも目がなれてやっと面影が捉えられるようになった。
あった、あった。右に後円(西)、左に短い前方部の前方後円部の頂部がはっきりと捉えられるではないか。そのとき、皆への位置説明に有効であったのはクレーン。小形の左から何本目のクレーンの上あたりかとなったのは皮肉であった。
でも、300mmの望遠レンズカメラにははっきりと捉えられていたよ。今は芝生のミドリで背後と相対化しているが、造墓時は花崗岩の地山の茶色の剥き出しであるから、きっともっと鮮やかに見えたに相違ない。
以前、皆で既設航路の船で遠望したが、もっと沖合を通るのでよく見ることができなかったので、感激でした。
あと、船中ビールの販売もあり(あんまり売れてなかったな、車持ちが多くて)、愉しみながらの海上エクスカーションでした。
企画、実行者に感謝。
右端の白いタワーの左の高所が相の谷古墳(白旗が見えるかな)
妙見山古墳遠望ですが、このカメラでは映りません。4.5Km位離れているが肉眼では見えるんだね(僕は簡易望遠鏡をもっていってたが)。
みんなしてあすこここと大騒ぎ。あそこ行きたいという人たちがいたが、結構なことです。ぜひどうぞ。