一昨日の続きです
西南四国型という独特の時文化をもつ弥生人の基盤は何だろうか
西南四国型土器の甕型土器は外面上半を櫛描文、微隆起帯文、浮文で飾り尽くし、まるで縄文後期土器のような趣の土器である。
その上、小形細頸壺や小壷はまま有するが穀物などの貯蔵に供される大型壺がほとんど無い弥生土器とは思えない器種構成なのである。大型壺は西土佐の古津賀遺跡で1点、寺山でも1点と言った具合で、どちらも日常土器として貯蔵用壷を備えていない。つまり壷を不要とする社会なのである。
それは栽培農耕への依存度の浅さを示しているかのようである。
集落規模の小ささも特徴である。古津賀遺跡は竪穴住居跡は最大4棟と掘っ立柱建物1棟で完結しており、寺山は竪穴住居跡1棟と土壙1個で終わっているようである。さすがに古津賀遺跡はそれでも栽培農耕をやったらしく、1点の石庖丁を出土しているが、この遺跡を始め、この地方には凹み石を伴うことが多く、農耕原理だけでは捉えられない。
標高80mの山頂にあって、リアス式海岸に面する宇和島市拝鷹山遺跡では地点貝塚や牡蠣打ち用石器はよく出るが、住地の範囲は狭く、竪穴式住居もよく造っていない。高知県大月町ムクリ山遺跡は標高2百数十㍍の高地にあるが、ここも包含層を出土するものの竪穴式住居を出土しない西南四国型土器出土遺跡である。打製石鏃、凹み石、刃器やコーングロスの可能性のある方形刃器も出土して、僅かの農耕痕跡を示しながらも狩猟、採集を行っている。
以上のように、西南四国型土器の中核地帯においては、若干の栽培農耕を含みながらも狩猟、採集、漁労を行い、多様併存型の食糧獲得を行った弥生文化が存在したようである。そしてその端部地域にあっては、宇和のように農耕化が進行してもいたようである。
一方海を隔てた大分豊後の大分平野でも多彩の食糧獲得による弥生文化が明らかにされつつあり、この平野の幹線河川を遡った高原地帯ではもっと単純に複合経済が展開されていた。
ことほどさように、弥生文化とはいえ、豊後、南予、幡多には水稲耕作原理だけでは説明できない弥生社会が存在していたのである。