優の手紙 ココロのD.N.A.

優の手紙 ココロのD.N.A.

人外。享年15歳。
〜この道を行けばどこへ行くのか
それはこのココロの地図が知っている
これはそこへ至るまでの記録である〜
過去の手記と未来への手紙

思い込みが事実を追い越し

君は本物になった

 

思い込みが事実を追い越し

君はもう 何者でもない




昭和98年7月14日

そして今日は昭和99年7月14日です。

ココロのD.N.A.初ライブから1周年です。

過去のブログから記事を引っ張ってこようかと思ったらブログを買いていませんでした!泣

1年続いてこれたのも周りの皆様が音楽家として立たせていただけるおかげです。

今はまた次の目標に向けて挑戦してみようかといったところですが、成功するかもわかりませんし、やり切れるかも不明です。

心身ともに低空飛行。

一か八か。

運命は回るのか。

3年前の6月11日は千葉県匝瑳市で一泊二日の地方生活体験をしていました。現地の人の話によると、生活のスピードを落として豊かに生きようということで、半農半X(半分は農業、残りの半分を得意なことや好きなことで稼いで生きる)という生き方を教えていただきました。中には農作業をしている人で引きこもりから立ち直った人もいるそうです。「人は土に呼ばれる」らしいです。ちょっとした農作業の体験もさせていただきました。

わたくしも体力面や精神面で普通に働ける気がせず、これから仕事どうしようかと思ってるのですが、

・障害年金をもらっているのでフルタイムの勤務でなくてよい
・1箇所で長く働こうと思うと気が重くなる
・とにかく引きこもりが長い
・運動しなくては

などのことから、短期の農作業のアルバイトでもやり始めようかと思っているところです。いつもの如く行き当たりばったりです。

懸念しているのは
・仕事がハードそう
・人間関係が難しそう
・蛇や虫が苦手

などです。(急に終わり)



くだらないジョークなんかで笑っちゃうのは

心を麻痺させてるからだよ

何も考えないように

痛みから心を守るように

まともに向き合ったら壊れてしまうから

そんなことも知らずに「君は元気」とか言うんだね

 

 

どれだけ辛く傷が深くても

元気なことにして平気なふりして

みんなを笑わせなければならない

痛がってなどはならない




精神病院退院後、いくつもカウンセリングを受けたり、福祉の職員さんたちにお世話になった。(今も)
その時に何人か言われたのが
「君は精神疾患を克服しようとして偉い」
という言葉だった。
これは自分にとって意外な言葉だった。自分の人生だからよくなろうとするのは当たり前だと思っていたからだ。
例えば車にはねられて大怪我をしていたら迷わず救急車を呼ぶと思う。それと同じことだ。俺が知らないだけで、世の中にはそのまま傷を放置する人もいるのだろうか?

俺はこの苦しみから逃れたいからカウンセリングを受けたり自立しようとしている。
とにかくこの苦しみから逃れられれば良い。例えばその手段が自殺だったとしても。

しかし自殺をするほどの覚悟が俺にはなかった。だから生きる方向でこの苦しみから逃れる方法を試しているだけ。諦められないのは、苦しいのに死んでないのは心臓が動いているから。








「生きる意味が欲しい」


でもそれって贅沢な悩みなんだろうな。


戦争でもしていて、今日生きられるかどうかわからないならそんなこと考えてる暇もないだろうから



6月26日は1年で1番嫌いな日でしたが、
それなら楽しいことを入れて無理やりにでも楽しい日にしようということで
ちょうどありがたいことに25日の夕方から夜にかけてイベントがあったので参加させていただきました。この日のために衣装を準備し髪を染め、歌と踊りを覚えて久しぶりに人前でパフォーマンスさせていただき、ありがたいことに賞をいただいたりなど始まってみれば充実してあっという間の夜でした。

そのままゴールデン街で久しぶりの再会があったり、日付をまたいで26日に2丁目に向かう途中でインタビューを受けたり(放送されるかは未定)イベントの景品でいただいた入場券で2丁目のお店で朝まで飲んで、帰宅後はデエビゴによる(?)悪夢にうなされ、昼から掃除の方々に来ていただいて部屋をきれいにしてもらい、続いて書類の整理をしてもらう方に来てもらい、夕方は消化器内科で採血検査、その後、夜から痩身エステの体験などものすごい1日になりました。

関わっていただいた方々、どうもありがとうございました









10年前の今日、東京に出てきたはいいが、バンド活動に地元のラジオ(←嫌だったわけではない。念のため)、この赤い髪など
生活していくにあたって生活費を稼ぐためにバイトは必要だったが、それらのことがあって生活は厳しかった。
家出しておきながら何度も仕送りをしてもらった。

まともな職にありつけず、労働基準法も守っていないような日雇いの仕事で生活もギリギリ、バンドも軌道に乗らず、謎の体調不良やトラブル続きで
上京して1年経つ頃には「もうこれでダメなら普通に働こう」とさえ思うくらいに思い詰め消耗していた。

2014年頃からフェードアウトし始め、最後のライブは2016年。
そのあたりからは音楽以外のこともしようと思ったけど、やはり何をしていても音楽のことを考えてしまうし、何の経験をしても音楽に活かせないのなら虚しい。経験の意味がない。

でも真っ当に生きないといけないと思って職も安定した職に就こうと思い、ハローワークがやっている学校に入学しようとしたり他にも色々とできそうなことはやってみたものの今更通用せず…

髪を切るのは絶対嫌だったので黒髪のウィッグをかぶってスーツを着て派遣社員をやったりもしていた。

しかし普通になろうとしてもどうしてもなることができずにどんどんおかしくなって精神をさらに病み、結局は精神病棟に入院するまでになってしまった。

これは入院前にも考えていたことなのだが、おそらく生まれた時に役割が決まっていたんだという
諦めと
受け入れ

俺は社会不適合であり、それは
生まれつきだったんだと思う。

俺のようなキチガイは社会性を捨ててでも何かに特化するしかない
この道を極めるしかない
そういう運命だったのだと諦めて受け入れるしかない。仕方がないことだったのだ。

今日はミニライブの打ち合わせと、道端でたまたま以前訪問してくれていた訪問看護の看護師さんとばったり出会い、近況の話をしたが、やはり音楽を続けるしかないという話になった。たとえそれが報われないまま一生が終わったとしても、他の道は選べなかったんだろう。全て生まれた時には決まっていたのだろうと思う。









ちょうど10年前の今頃は
地元から家出をして東京に向かう夜行バスで揺られていました。
地元にいるうちの最後のラジオ放送ののち、その週の週末でした。

約束は果たせなかったのですが、こうなる運命だったのでしょう。今僕は東京の自宅へ帰る電車の中でこの記事を書いています。

10年目の明日は福祉施設に出かける予定です。



自分の技術と知識ではこのくらいが限界な気がする。

この10年、何をやってきたんだろう?

漫画家でも初期と後期で画力が上達するのに。