子どもを育てる夢を見た。
子どもは柔らかくて、むちむちで、何もわからない赤ちゃん。
顔は見えないが、無条件に愛おしさがこみ上げる。世話をしながら“この子を守ってやらなきゃ”と強く思ったところで目が覚めた。

夢うつつの状態でも思っていた。子どもは無条件で可愛いものだと。
「イケてる」「イケてない」なんてものさしがいらない赤ちゃんの愛らしさ、ツヤツヤの髪、紫外線をそんなに浴びていないぷりぷりの肌。胸を張って「わからない」と振る舞える無邪気さに微笑ましくなる。

しかし、トニ・モリスン『青い眼がほしい』の世界では、子どもの可愛さは“条件付き“だ。
貧しい家に生まれた黒人の少女・ピコーラは、周りの人間だけでなく家族からも可愛がられなかった。
ピコーラは周りから醜い子とみなされ、彼女の無邪気さは人々をどこか苛立たせ、ピコーラは無意識のうちに”傷つけてもよい“存在として扱われていた。
1930年代、黒人差別が激しい頃のアメリカで、ピコーラは誰よりも虐げられていた。

この物語では、ピコーラの数少ない女友達の目から、母の目から、父の目から、ちょっとした関わりを持った人の目から、「どのようにして」ピコーラが可愛がられなかったのか、虐げられたのか、こと細かに語られる。

ピコーラは「青い眼がほしい」と祈る。ピコーラが青い眼を持つ子どもであれば、周りから可愛がられ、愛され、今の環境から救われると考えたからだ。
ピコーラは無垢で無知な娘だった。周りの人々は自らの愚かさの保身のためにピコーラの性格を悪用し、ピコーラをさらなる悲劇に陥れるのだった…。

「美というものは、たんに目に見えるものではなかった。それは、人が”美しくする“ことのできるものだった。」(306頁 著者あとがき)

この物語の登場人物は、誰かを貶めることで、差別することで、自分の魅力・美しさを誇示しようとする。自分より下位の人間を見て「自分はまだ大丈夫だ」と思う。それをしないのは不幸にも”標的“になったピコーラだけだ。

この物語は、美意識に関するそういう態度に痛烈な批判をし、異議申し立てをしている。
美意識について、自分が今思う価値観のままで本当に良いのだろうか、と考えさせる。そして自分の価値観を過剰に他人にあてはめていないか、とも。思い巡らせドキリとする。

悪意ある人間に対抗するにはピコーラは幼すぎ、無垢でありすぎた。彼女の悲劇に胸が痛む。
黒人差別という歴史的背景はあっても、「なぜ」ピコーラがとりわけ醜い子とみなされ、虐げられたのかは結局のところ「わからない」のがこの物語の肝だ。人間がその時の状況で美しいもの/そうでないもの(醜いもの)に振り分けているだけなのだ。

美しさの脆さと、人間の愚かさ、ずるさを十分に感じさせた一冊だった。
しかも、わたしにも心当たりがあるような感覚で。

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