竹内芳郎の思想 -5ページ目

附録1.2002年 A.2002年の討論会(塾報171-182)

A.2002年の討論会(塾報171-182)

 2002年の討論会は、月1回のペースで計12回開催されている。

 この年も多くが塾報批判会であるが、「<同時多発テロ>をめぐって」(塾報174)と「哲学とは何だろうか?」(塾報175)、「記録テープ問題」(塾報181)の3回の討論会において新たな問題提起がなされている。

 ここで採り上げるのは、「<同時多発テロ>をめぐって」(塾報174)、死刑廃止論、<従軍慰安婦>問題、サルトルと丸山真男、広松渉について語った「第82回塾報批判会」(塾報176)、行為と思想の関係または言論の自由について述べた「第86回塾報批判会」(塾報180)、幸徳秋水・福沢諭吉・吉本隆明・天皇制等を論じた「第88回塾報批判会」(塾報182)、とである。

附録1.2001年 G.塾報168(2001.10.27「第76回塾報批判会」)

G.塾報168(2001.10.27第156回討論会「第76回塾報批判会」)

 【歴史教科書問題への補足】
 西尾氏らの所謂「新しい歴史教科書」なるものの実際の採用率が意外なほどに低調だったことは、誠に喜ばしい限りだが、しかし、これを韓国側の反応のように「日本国民の良識の勝利だ」と手放しで喜ぶのは、考えものだと思う。私の見る所、これはむしろ、日本人の通弊たる「イザコザを回避する事なかれ主義」の結果だったと考える方がより正確だと思う。真の歴史教育とは、自国の過去と対話し、その<対話>を通じて自国の在るべき新たな未来を模索することである筈だが、そういう原理原則に則ってあの教科書を有害なものと断罪した結果だとはとても思えない。だからいつ覆るか解ったものではないから、決して今度の結果に安心せず、ここいらで教科書問題の民主的解決法を確立しておくべきだと思う。要点は二つ、①教科書選択権を教育委員会だけに独占させず、教師や親たちも参加できるようにし、しかも常に公開の討論を通じて公明正大に決定できるようにすること。②そうした上で尚、教師は教科書を決して神聖視するような態度をとらず、また生徒にも神聖視せぬように指導すること。(p.1)

 【教科書選択権について】
 「教師なぞに口を出させず、教育委員会こそが絶対の権限をもて」というのが、あの「作る会」や石原都知事のような右翼の主張のようだ。その名目上の根拠は、教育委員会の方は選挙で選ばれた市長が任命したものだから「民主的」、これに反して教師の方は選挙とは無関係で勝手になったものだから「非民主的」、というもの。だが、こんな根拠づけは全く形式だけに拘泥した空疎なものだ。ホントに民主的となるためには、中野区のように教育委員会自体が直接に市民から公選されねばならぬ筈だし、一方、実際に教育に携わる教師の主体的意志を無視して教科書を押しつけること自体が非民主的だから、教師自身が民主的な歴史観を身につけられるよう教育機関と教師資格試験の方を改善すべきだと思う。何れにせよ、誰でも納得できるよう、選択過程が完全にガラス張りで行われることが必要だろう。今のままでは極めて危険だ。(p.2)

 【国家主権をのり超えるために】
 それ(国家主権の克服)がそう簡単に行かぬ所に深い絶望感がある。今度の「同時多発テロ事件」は、確かに巨大かつ兇悪なものではあったが、あくまで国際的犯罪であって国家間戦争ではないのだから、今度こそ国連主導のもとに国家主権を超えた確固たる国際司法裁判所を設置する絶好の機会だったにもかかわらず、これに対して米国があの狂暴きわまる星条旗愛国主義による報復戦争でもって応答しただけにとどまらず、世界の主要国の殆ど全てがこの愚劣な風潮に足を掬われてなる術がなかった。国家権力というものは、自分ではいつでも合法的に暴力を行使することのできる所だから、非合法に暴力を行使するterroristsを心から憎み<絶対悪>視するのは自明の理だが、こうした権力者的視点からしかterrorismに対処せぬ限り、国家主権を超えた真の国際正義を確立するどころか、逆に国家主権の無限膨脹(「不滅の自由」から「不滅の国家管理」への逆転)をもたらしてしまう。小泉首相の言う「国際社会の常識に従う」とは、実は「国際権力者達の常識に従う」ということでしかない(だからアラブ世界だけでなく表面的には米政府を支持している中国政府の許ですら、民衆levelでは「驕れる米国、ザマを見ろ!」というのがテロ事件への圧倒的反応だ)ということを、よく認識しておくべきだ。また、先日TVをつけたら偶然に民主党緑風会の佐藤道夫氏の国会質問の模様が放映されていて、氏が「国際法的見地から判断する限り、ブッシュ政権の態度よりもタリバーン政権の態度の方がより理に適っている」所以を、幕末の「生麦事件」に対する薩摩藩の態度から説き起して縷々と説明しているのを見て、国会議員(特に保守系議員)中にもこういう正論を吐く人が居たのかと、正直言って驚いた(笑)。むろんタリバーン政権の抑圧性・反人権性は厳しく指弾されて当然だが、それとは別に、こういう国際法上の公正さの視点も大切なのだ。(p.4)

 【メディア問題への補足】
 ここでも3点ほど補足しておきたい――①「記者クラブ」の<指南書>事件の問題点は、要するに権力との馴れ合いをもたらす「記者クラブ」の閉鎖性・独善性にあったわけだが、これへの真向からの挑戦として、例の田中長野県知事の「脱記者クラブ宣言」が発せられ、物議をかもした。これは一方では「記者クラブ」のいい気な<言論の自由>独占に対する反措定として、胸のすくような快挙だという側面をもつと同時に、他方では<言論の自由>への公権力の介入という甚だ危なっかしい側面ももっている。この両側面をかなり周到に論じた二論文が『マスコミ市民』なるミニ・メディアの9月号に掲載されている(田島論文柳原論文)ので、紹介しておく。もっと広く論じられて然るべき論点だ。②マス・メディアとしてのNHKの不埒さのもう一つの例として、戦時下性奴隷制=「慰安婦」問題を扱った「女性国際戦犯法廷」の報道が右翼の脅迫でひどい歪曲を施された事件を挙げておきたい。これは(私の知る限り)朝日新聞が何度かとり上げ、赤旗日曜版もとり上げた他、『マスコミ市民』4月号も詳しくとり上げているが、更に、」国際的にも世界の学者360人がNHKに厳しい抗議文を突き付けてきている。にもかかわらず、NHKは誠実な対応を示しているようにはみえない。むろんこういう企画を立てた下部の立案者たちの報道人としての良心は、それなりに高く評価さるべきだが、もみ消すことしか考えぬ上層部の不誠実さは断じて許さるべきではない。③「企業内社員の内部告発は企業自体にとっても実は得なのだ」とのK氏の発言を実証する例として、伊藤忠商事の再建決意表明で新社長がやはり社員たちの内部告発の必要を強調していたことをTVが放映していたので、一言付け加えておく。(p.4-5)

 【天皇制に固有の無責任体質】
 天皇制独特の無責任体質についても一言。ヒロヒト天皇の弟に当る三笠宮は、1984年の自叙伝の中で、43~44年に南京総司令部に軍人として赴任した際に自ら見聞した皇軍の残虐行為(訓練のためと称して捕虜を生きたまま初年兵に突き殺させたり、捕虜を生きたまま毒ガスの生体実験に供したりetc.)を正直に告白していたことは前からよく知られていたが、最近の新聞報道によれば、この事実は兄の天皇に報告済みだったとのことだ(平山郁夫古希の会での発言)。こういう報告を実の弟から受け取りながら、皇軍の最高司令官(「大元帥」)たる天皇が何の処置も取らなかったこと、否むしろ取る能力すらもち得なかったこと――そのことをよく考えて頂きたい。……「無責任性」というよりは「無責任能力性」。そこにファシズムやナチズムと違う天皇教固有の特徴があるのだ。(p.6-7)

附録1.2001年 F.塾報167(2001.9.29「<戦後民主主義>の再検討」)

F.塾報167(2001.9.29第12回全塾懇談会「<戦後民主主義>の再検討」)

 【9.11<テロ>後の全塾懇談会によせて】
 そもそも全塾懇談会は、個別的な問題を徹底的に追求する普段の討論会とは異なり、本討論塾が置かれている全体的な場を総括的に論ずる討論会であって、特に今日の全塾懇談会は、塾報165末尾に記した通り、前回の全塾懇談会の主題:<欺瞞の体系としての戦後民主主義>克服の課題を、新たな社会状況(森首相の「神の国」発言に代る小泉首相の「靖国参拝」)の中でもう一度取り上げようとするものだ(なぜそうするかと言えば、前回の全塾懇談会では、討論が直ぐさま「直接民主主義」や「民兵」のような個別問題に注ぎ込んでしまって、戦後民主主義再検討という全体的な主題そのものは殆ど追求されないままに終ってしまったからだ)。そういう目標をめざして書かれたのが拙論「小泉首相は靖国参拝を断行せよ」であって、その趣旨は、冒頭段落と末尾段落とを直結すれば自明となる。つまり、「もういい加減にタテマエとホンネとを使い分ける欺瞞的な態度は止めよ。そしてそんな態度をもたらす近隣諸国の顔色を窺った「配慮」つまり気兼ねなぞから発想することをやめ、「自らの過去の所業を率直に認識する知的廉直さ道義的勇気とを」「日本人としての誇りに賭けて」実現せよ、ということだ。「断行せよ」とはむろん逆説的表現で、「永久に断念せよ」というのが真意であることは自明。

 但し、ここで「新たな社会状況の中で」と言っても、あの衝撃的な「同時多発テロ事件」が全世界を震撼させてしまった現在の状況下では、8月11日に書いたこの小論のとり上げている「教科書問題」や「靖国参拝問題」なぞ、どこか遠くにまで霞んでしまい、まるで隔世の感なきにしも非ずだ。けれども、よく考えてみると、私たち自身に課せられている思想的課題は、実は些かも変っていない筈であって、だからむしろ、まだ始まったばかりで今後どう展開されてゆくか全く不明の今回の事件に直ぐさま飛び付くよりも、8月の問題の根底をキチンと洗い出すことによって、この新たなテロ事件への私たちの正しい対処の仕方が自ら明らかになるようにした方がよいと思う。というのは、ここで取り上げるわが国の戦後民主主義の欺瞞性を蔭で支え助長したのは、実は戦勝国=米国のご都合主義的な国益第一主義による民主主主義原理の歪曲だったからで、天皇ヒロヒトの戦争責任の免責、平和憲法の押しつけ、731部隊問題に端的に見られるような皇軍の戦争犯罪の隠蔽etc.、どれをとっても米占領軍の共犯性は明らかだ。今後のテロ事件へのブッシュ大統領の独善的対応と愚かにもそれへの追随につんのめってゆく小泉首相の態度も全く同じであって、アラブのテロに対してする報復戦争を全世界の「自由と民主主義」の擁護、「無限の正義」infinite justiceの美名でもって正当化しながら、自分が過去においてアラブ世界に対してどんなにその美名と相反する醜悪な態度をとってきたか(パレスチナ問題、イラン革命、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、アフガン・ソ連戦争etc.に対する態度を見よ)をすっかり隠蔽してしまう、そんな米国の態度になり振り構わず同調して暴走して行く小泉内閣の姿は、いっそ滑稽と言う他はない。こんな愚劣な共犯関係を根絶するためにも、それに先立つ8月の問題にまず決着をつけておくべきだと考える。それが今回の全塾懇談会の課題というわけ。(p.1-2)

 【小論「小泉首相は靖国参拝を断行せよ」への補足】
 最後に、この拙論に対して、次の2点を補足しておきたい――①『福音と世界』論文41頁でも少し触れておいた通り、<戦後民主主義の欺瞞性>は、戦後民主主義下で実施された戦没者の叙勲と恩給支給が戦争中の軍国主義の価値観・序列観にそのまま則って行われ、そのことが社共のような革新政党からも何一つ異議申立てを受けずに全く自明の事として通ってきた、その所にまず表れている。したがってマス・メディアでもその不合理性が指摘されたことは一度もなく、そのため私自身も、施行開始から10年以上も経って、松浦玲『日本人にとって天皇とは何であったか』の所論を読んでようやく気付いた次第。これを見ても、<戦後民主主義>は、実は<天皇制軍国主義>と全く地続きだったことが、手に取るように解る。もしも戦後日本が本気で新たに民主主義の原理の許に再出発したのなら、この新たな民主主義国家が「感謝を捧げる」べき「英霊」とは、軍国主義に反対して闘って死んだ民主主義の先駆者たちである筈なのに、逆に軍国主義を推進した戦争犯罪人や軍国主義のために他国に侵略して侵略死した者たちになってしまっているのが現状なのだ。この現状をおかしいと思わぬ精神は、よほど錯乱していると言うべきではないか? ②あの醜悪な侵略戦争に狩り出されて敗死を強制された戦死者たちの遺族の中に、そのような惨めな敗死を自分の親族に有無を言わさず強制した戦争指導者たちと同じ神社に、自分の親族たちが同じ「英霊」として祀られることの醜怪さに全く無神経でいる者たちが数多くいる(むろんそれを凛然とし拒否している少数の貴重な遺族たちもいるが)そのことこそが、戦後日本を相変わらずの(最高責任者の責任を問わぬ)<無責任社会>たらしめている原因となっていることを、深く自覚すべきだと思う。(p.2)