竹内稔の先憂後楽つづり -2ページ目

竹内稔の先憂後楽つづり

なりたい自分は、自分でつくる。できる人から伸ばせる人をめざす。

数霊/たま出版

¥2,484
Amazon.co.jp

P6より転記。

数霊、その前に

1、神道とあいまいさ

NOと言えない日本人の「あいまいさ」が取り沙汰されて久しいですが、
この「あいまいさ」というものは必ずしも悪しき風習というものでもないのであります。

法律やスポーツのルールなどがあいまいすぎるのは問題でしょうが、
決め事の中にあいまいさが残ったままでありましても
民度が高いほど争いは起こりにくいものです。

逆に民度が低い地域や国ほど決め事・ルールを事細かにしておきませんと、
秩序が乱れてまいります。

なぜなら、あいまいな範囲での判断は、各々のモラルによるものなのですから、
また思想的なことにいたしましても、すぐに答えを出さずして宙ぶらりんにしておきますと、
求めた分はどんどん成長してまいります。

それに対する捉え方の深みが。



「あいまいさ」というものは、


相手の親切心の有無にかかわらず、自らの主張をはっきりさせることが
相手への思いやりともなるような習慣に育った民族にとりましては、
じれったいものでありましょう。

特に何に対してもすぐに白黒はっきりつけたがる西洋人にとっては、
非合理的以外の何物でもないようであります。

ところがです。

日本の風土におきましては「あいまいさ」もたま思いやりであります。
やんわりとした断り方として言葉を濁し、はっきりさせないことで、
相手を傷つけまいとする「あいまいさ」は「いい加減さ」とは違いまして、

これも心遣いであります。



相手方も「あいまい」な返答から思いを察し、ではまた次の機会にと
退きやすい、やわらかで暖かみのある独自の文化です。

それでも、相手が必要以上の期待を持ってしまうような「逃げ」での
あいまいさはよろしくありませんし、

何度言っても察することができないような、しつこい男には、
はっきりと、"嫌いだってば"と言ってやわねばいけません。

しかし、だからといって「あいまいさ」が全面的に否定されなければ、
いけないということでもないのであります。

「あいまいさ」は日本古来からの宗教観にも根付いておりまして、
それは日本が世界に誇る大変優れた宗教体系、神道の中にも見られます。

ここでいう神道とは、明治政府のつくりあげた強制的思想の国家神道ですとか、
代表的なところが、大本、黒住、天理、金光、といったやはり
明治以後の教派神道のことではありませんでして、

それ以前の古神道、あるいは氏神神道と呼ばれるもののことであります。
古神道、氏神神道とは簡単に申しますと、

「人々の暮らしの中で絶えることなく連綿と受け継がれてきた信仰習慣」

のことでありまして、

これを「惟神(カムナガラ)の道」と申します。

カムナガラの道、これが神道であります。



神道には開祖がおりません。
開祖がいないので教義もございません。
したがって戒律もないのです。

戒律がないと言い切るのは適切ではないかもしれませんが、
定められたものはございません。

本来信仰とは「神様対個人」においてのことでありまして、
その間には何も存在しないのであります。

そして、神様対自分の中で得るものは各人違っていて当たり前ですので、
一定のものを定める必要性などもございません。

ですから宗教上の対立も、しようがないのであります。
何も定められていないのですから。


先ほど神道を"大変優れた宗教体系"と申しましたが、
実はこの表現は間違っています。

なぜなら、神道は体系化されておりませんので。

体系化されておりませんし、教義もありませんので、
解釈の違いにより相手をやり込めたり、争いが生じることも
ないわけであります、本来は。

考えてばかりでちっとも行動に移さず、
行動する前からすでに答えを出してしまっている者に対し神様は、

「考えんでもよい。まず行動してみよ」
とおっしゃるでしょうし、

逆にじっくり考えることなくすぐに思いつきで行動し、
失敗をくり返すような呼吸浅き者に対しては、

「おい、動くでない。じっくり考えよ」
とおっしゃることでありましょう。

この「考えるな、動け」と「動くな、考えよ」のどちらかを教義にしてしまいますと、
非常に偏った社会となり、やがては解釈に異を唱える者同士で
対立が起こることでありましょう。

そうして人々は殺し合っているのです。

ですが神道にはありがたいことに教義がない。


人それぞれが、その時々に応じて直接「神様対自分」の対話の中で
適切な答えを導き出していけばよろしいのです。

あまり自分を保護しすぎずに。

「考える」とは「神返(カミガエ)る」ことでありまして、
自ら神に返る、自身を神にとって代えることで

よりよい手段、方法を導き出すことであります。



また、考えるは「神迎える」でもあります。

神迎えるというのは自身の肉体を神の宿る社とし、
神様をお迎えすることであります。

そのために玉(タマ)し霊(ヒ)を穢(けが)さぬようにし、
清まった状態で神迎えお知恵を拝借するのであります。

「カエル」とは「発生する」するという意味もございまして、
卵が孵(かえ)るのカエルです。

神迎えることにより新たな知恵が発生するのであります。
神迎えることで神様のお知恵を授かりましたならば、
次はお知恵を活かすために行動する。

行動せぬ者は守護のしようがなく、縁も与えようもないわ、と
守護者はおっしゃいます。

このようなことを生活の中で各々が行なってまいりましたので、
教義を設ける必要がなかったのであります。

元来「惟神(カムナガラ)」の道では大自然すべてが信仰の対象でありました。


太陽を拝み、月を拝み、火を拝み、水を拝む。
木を拝み、 花を拝み、農作物を拝む。

風を拝み、石を拝み、土を拝む。
親を拝み、子を拝み、人を拝む。

そして、特に気の高いと感じるところに社を建てました。
気の高いところを「イヤシロ地」と申します。

「癒す」とはここからきております。




反対に気の澱(よど)んだところ、気の枯れたところを
「ケカレ地」と呼びました。

穢れ地のことでして、気が枯れてしまった状態の地です。
イヤシロ地は通常山の奥ですとか、山の頂きであることが多いのですが、

そのような所ですと社を建てましてもそう頻繁にお参りにいくことができません。
そこで人の住む里のなるべく気の高いところにも社を建てました。

それが里宮(さとみや)であります。

村人は毎朝里宮に出かけて行きお礼を言う。
お礼だけでなく報告もする。

普段お礼や報告をしている分、困ったときには力をお借りしやすいことも
経験からちゃんと知っておりました。

こうして各々が大自然を信じ仰いでいたのであります。
信じ仰ぐことが信仰なのですが、

これが自然発生的に行なわれていった。

あるいは、伝えた者がいたとしても教義を設けなかったがために、
その者の名も残らなかった。

ですから神道には開祖がいないことになっているのであります。
開祖がいないということは、後(のち)の者が開祖に対し

対抗意識を持つこともありませんし、劣等感を感じることもなく、
「神様対個人」の信仰生活が阻害されませんので
大変よろしいのであります。

世の中が不況になってまいりますと、
人は心のよりどころとして教義を求めたがります。

教義によって自身の悔い改めをするのは結構なことなのですが、
どうにも勘違いされて困ることもございます。

これぞ神様の御心に適うものと信じ、教義・戒律の規制を
エスカレートさせますと、

本人は「清く、正しく、美しく」のつもりでありましょうが、
実は「清く、正しく、つまらない」になってしまいがちであります。

「清く、正しく、つまらない」というのはちっとも
イキイキしておりません。

オロオロしているのであります。

人から見れば、
「窮屈で、息苦しく、おせっかいな」ということになります。

あの人と会うとまずその話になるからやめましょ、
と避けられるようになります。

それでは生命を活かすことができませんし、自分らしさも失ってしまっております。
生きていることはイキイキしていることが第一条件でありまして、

それなくして"生かされている"なんて言っても、自身を全く
"生かしておらず"神様の思いにも適っておりません。

教義なきところに戒律存在せず、ではありますが、
神道では何かを行なう場合、目的に応じて神様対個人で決め事はしてまいりました。

家族の病が癒されることを願い100日間欠かさずお参りを続けてみるのも、
いや21日しか無理だとというのも神様と自分自身で決めればよろしいのであります。

お参りという形のみならず、川原のゴミ拾いでもよろしいし、
一日に10人の人を笑わせるということでも特性を活かした尊い決め事であります。

要は目的を達成させんがために、少しだけ努力を必要とするようなことを
神様と取り決め、一旦決めたらそれに背(そむ)かず行なっていく。

これがいわば神道の戒律のようなものであります。



一般的な戒律というのは二種類ございます。

ひとつは"これをやってはあかんぞよ"といった「禁戒」。
もうひとつは"これこれ、これをやりなさいよ"という「勧戒」であります。

もちろん神道では双方とも、何も定められてはおりませんが、
神々に対し礼を逸しないための態度ふるまいなどには
決まり事が継承されております。

それは簡単に申せば神々に対し

「穢さぬこと」と「畏敬の念を持つこと」であります。



「穢さぬこと」に関しましては、各々の立場で謙虚さを持って、
心に"これをやっては失礼にあたるかもしれないな"と思うことをやらなければ
それでよろしいのですが、

問題は「畏怖の念」であります。

西洋から輸入されました癒し的思想及び手法にも大変すばらしいものがございますが、
どうも一部に畏怖の念というのが抜けております。

神と対等でありたがっている。

平等さというのは人々に与えられた権利でありますので、
それを要求することに問題はありません。

しかし対等でありたいと望むのは自分がすでに相手の下にいることを
認識しているから湧きおこる欲求であります。

下にいる自分が可哀想なのです。

それを何に対してでも対等でありたがるのは老若男女の特性を
無視した傲慢さであります。

ましてや神々と人間では歴然とした力の差があります。
思いの深さに格段の差がございます。

日本の既存の宗教に対する反発がありますと、西洋物に心地よさを感じるものです。
そこには泥くささもなく爽やかであり、パステルな色合いに満ちております。

ですが、日本の風土の中で生まれ育った以上は神々に対し、
あるいは大自然に対し敬う心や畏(おそれ)る心を忘れますと、

風土に対し不自然な気を発するようになります。
それは自然の摂理に反することになりますので体を壊します。

ですから手段としましては何をお選びになってもよろしいのですが、
畏敬の念は持ち続けられた方がいいでしょう。

自分が若かりしころ夢中になったことを子供にもやらせたがるようなものです。
その思いに反することを続けておりますとやがては

運気までが下がってまいりますから、そうならぬための畏敬の念でもあります。
畏敬の念を持っておりますと心がグッと締まってまいります。

閉(し)まるのではなく、ひき締(し)まるのであります。
解放した状態でグッと締まりますと、

心の真ん中に一本芯ができた状態になります。

神々に芯を持って手を合わせてお礼をのべる。報告する。
願いがあれば祈る。

そうしますと神々の反応もいち早く現れてまいります。
ちゃんと願い叶うための縁が与えられるのであります。

このような信仰生活こそが風土に根付いた惟神(カムナガラ)の道なのであります。
「祈る」ということは神様の思いを判るということであります。

思いを判り、その思いに添った生き方をする。



これが"神の意に乗る"ことでありまして、
すなわち「意乗り」であります。

意乗りができておりますと、必然的に祈りは通ずるものであります。
もし、神様の意に反した生き方をすることで意乗りはしておりません。

祈る前に普段から意乗り、祈った後はただ意乗る。
これが願いが叶う法なのであります。

このように、定められたものがほとんど無い状態の古い人たちは、
大自然とともに生きてまいりましたので、
「あいまい」な点というのは多く残っております。

しかし、あいまいさがあるからこそ、
大きな争いなく永く受け継がれてきたのでして、

「柔(じゅう)能(よ)く剛を制す」とは、まさにこのことであります。
きっちりとした体系化された剛は一見判りやすい。

ところが臨機応変さを持ち得ぬ硬きものですと、いつかは争いを生み、崩れていくものです。


神道のあいまいさ、
日本の風習のあいまいさな柔こそが、

今の地球人類にとっては大変重要なことなのです。

以上転載終了。



数霊を再勉強しようと思い最初のページを開いたら
このメッセージが書かれていました。

日本の風土にあう「あいまいさ」と「畏敬の念」
などなど、たくさんのメッセージがある内容です。

今の私にとっては、

社会的には西洋思想のもとで公的に考えて活動しています。
けれども、一人の人間としてイキイキ生きるには、
このような古人から教えられて学ぶべきことが、

まだまだ、てんこ盛りのようです(汗)

休日の今日は、
日常生活を忘れ「数霊」の本と向き合っていきます。

愛・調和・感謝音譜