9月22日(木)
今日は、左下歯肉の部分が単なる歯周病ではないようだということで、紹介された病院の口腔外科へ行った。腫瘍ができており、これが良性なのか悪性なのかを細胞診にかけるとのことです。あ~あ、また細胞診か、とため息が出ます。変なところに飛び火しないでほしいと祈るばかりです。
さて、妻から、部屋にこもって難しいことばかり言ってないでもっと楽しいことを考えなさいと言われたので、本日は、私にとって楽しいことであったマラソンについて思い出を振り返ってみたいと思います。
私がマラソンにまじめに取り組もうかなと思ったのは二十代後半である。最初に赴任したSZ高校でマラソン大会があり、担任として生徒とガチで対決してみようと思い、自分なりに練習を始めたころから、今年の7月、病魔に倒れて腎瘻をつくるまでの間、趣味としてのマラソンを四十数年間続けてきた。振り返れば教員生活のどこの時代をとってもマラソンに関する思い出がある。簡単に私のマラソン歴を紹介すれば、四十代前半くらいまでの間は、一年の中で春になったら練習を開始し、夏に少しまじめに走り、秋に校内マラソン大会もしくは、それ以外のマラソン大会にひとつ出てその年の練習は終わり。翌年の春までは一切練習しないという程度のもので、走り始めの春は体がとても重く感じ、肺もとても苦しいという状態からのスタートだった。それでも一応それなりの練習はやっていたので新任校(SZ高)では教員として生徒と対決し、クラスで2~3位、次のNN高では全校生徒中十数位、さらにその次のNK高では全校生徒中十三位と、案外速く走れたのでした。ただし、校内マラソン大会がある秋には、いつもその日程と重なるように部活動(バスケット)の大会があり、ほとんど学校の大会には参加できなかった記憶がある。そんな時には松島マラソンとか、仙台市民マラソンとかローカルな市民マラソン大会にひとつだけエントリーして、それを目標として練習していた。参加すること以外の目標を持たなかった市民マラソン大会のなかで、目標を変えてくれたのは子どもが小学生に育ち親子ペアの部に娘と参加した96年仙台放送ふれあいマラソンだった。1Kmの道路を親と子が手をつないで走り最後に道路から野原に入ってゴールするというコースだったが、娘がけっこう頑張って上位をキープして走り、4位か5位で野原に入った。あとはゴールまでの直線だ。ここで私は欲が出て娘の手を強く引っ張りながら最後のダッシュをかけ、2位でゴールすることができた。百組以上のペアの中での2位だから上出来である。娘と共に初めてマラソン大会で表彰状とトロフィーを手にすることが出来て、いたく感動した。さらにこの様子が仙台放送に流れて何人かの方から、TV見たよと言われた。なるほど、大会を選んでしっかり練習すれば入賞できるんだということを学び、それ以降は一人で走る大会でも年代別入賞を目標とするようになった。当時私は四十代だったが、四十代の部でも時々入賞できるようになった。そして表彰式に出るのがまた誇らしかった。次に赴任したTM高では校内マラソン大会はなかったが、職員達でマラソンクラブを作り、仙台市民マラソンにみんなで出るようになった。その頃から、長距離なんて大嫌いと言っていた妻も私と一緒に練習をするようになり、練習時間は増えていったし、年齢を重ねるごとに、より速くマラソンを走れるようになっていった。(続く)