赤信号は、「止まれ」のサイン。万国共通の交通ルールだ。
道を歩いていて、交差点に差し掛かったとき、信号が赤だった、としよう。
ルール上はもちろん「渡るな」という意味である。
ただ、渡ろうとしているのは片道1車線の細い道だ。ものの3秒もあれば、向こうに行けるだろう。
交通量も少ない。左右を見渡しても、車はこない。
、、、さて、あなたならどうする?
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もちろん、「正解」は、「信号が青になるまで待つ」である。
ルールは、そうなっている、当然だ。
ただ、、、人生の選択というものは、正解でなきゃいけないのか? と問うところから、始まったりする。
この場合も、そうだろう。
ルール上は、渡らないのが正解。。。を踏まえて、その上で、私はどっちを選ぶの? って話だ。
こういう問いかけにおいては、「正解」という概念はあまり意味がない。
自分はどっちを選ぶのか、、もっと大袈裟に言えば、自分はどう生きるのか、という人生哲学の話だからだ。
「渡らない」「渡る」
どちらを選んでも、その人の人生である。本人が納得できる方を選べば、それでいい。
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ただし、、である。
ここで「渡る」を選ぶ人は、「私は自分の意思で「渡る」を選択した」という立場を、納得しやすい。
ルール上は違反だけど、自分の判断で安全を確認したから、自己責任で渡る、と、たいていは自分でもそう思っているだろう。
それに対して、、、「渡らない」を選ぶ人は、「自分の意思でそれを選んだ」とは、あんがい思いにくいのである。
「だってルールがそうなんだから、渡らないのが当たり前でしょ」っていうスタンスになりやすいのである。
まあ、、もちろん、その主張は、間違ってはいない。おっしゃる通り、なのだ、、が、、
それだと、「ルール」が隠蓑になって、「自分が選んだ」という部分が見えにくくなるのだ。
これは、信号だけの話に止まらない。
身の回りのさまざまなことに関して、終始、「ルールなんだから当たり前」っていう発想で対応してしていると、、
「自分の人生を自分で生きる」という、生きる姿勢の根幹の部分を、見失いやすいのである。
誰からも後ろ指刺されないような正しい生き方をしているつもりなのだけれど、なんのために生きてるの? とか、何をやっている時が一番幸せ? などと問いかけられると、はたと困ってしまったりするのである。
思い当たる節は、ないだろうか?
だから、、、
自分の人生を生きる練習をする途中では、ちょっとしたルール違反行為をあえてやってみると、思いのほか、多くのことをそこから学べたりする。
心屋の初級セミナー(上級だったかな?)でも、マナー違反的なことをあえて勧めたりしてるよね。
普段は守っているルールやマナーを、あえて自分の意思で踏み越えてみて、、そのとき自分の心の中にどんな感情が起きるかを観察してみる。
そんなところから、「自分の人生を生きる」ための糸口が、見つかったりする、こともある。