ちょうど1週間前の週末、8/10、11は、ヒモトレフェスだった。
年1回の開催で、今年で5回目だという。
去年までの僕は、一参加者として、気になるセッションにだけ顔を出す程度の立ち位置だったのだが、今年はなんと、自分も演者の一人に加わることになった。
これは一大事である。
僕の出番は、2日目の午前。
今回、初めて設けられた「アート」をテーマとするパートだ。
プレゼンやワークショップなど盛りだくさんの2時間。
↑はい、パワポでプレゼン中の僕が写ってます。ちっさくて見にくいけど、ステージ上右サイドに座ってる青シャツの人ね。
このパートには、書道家の武田双鳳さん、和太鼓の佐藤健作さんという2人のバリバリのパフォーマーが登場。
最初が、「アート分野におけるヒモトレの意義」というテーマで、僕のプレゼン。
その後、書道とヒモのワークショップ、太鼓とヒモのワークショップと続いて、、
最後は、この二人のコラボパフォーマンスで締めた。
地響きのような健作さんの和太鼓が鳴り響く中、双鳳さんが、刻み付けるような筆さばきで一気に書き上げた。
書いた直後(左)と、乾いた頃(右)では、またずいぶん印象が違う。
いやぁ、すごかった。
これ以外にも、2日間で、スポーツ、武術、ヨガ、医療、介護、教育、メンタルなど様々なバックグラウンドの人たちが登壇。
↑2日目の最後。ステージ上に並んだ全演者。僕は真ん中辺にいる青シャツです。
さて、今回、初めて演者側に回ったことで、控え室や打ち上げで多くの他の演者と接する機会があった。
そこで感じた熱感や衝動は、ある意味、発表された内容以上に刺激的で、実に実り多いものだった。
そう、実際のところ、、、実りや刺激が大きすぎて、それを文章へ落とし込もうという気持ちになるまでに、1週間という期間を置かなければならなかったのである。笑
ようやく、自分にとっての今回のヒモトレフェスの何たるかを文章化できそうな気がしてきたので、ぼちぼち書いてみたいと思う。
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ヒモトレフェスのテーマは、「ヒモトレから観る身体の可能性」となっている。
ヒモトレの可能性、ではなくて、“身体の可能性”であるところが、カギだ。
可能性を探る対象は、あくまでも、身体。ヒモトレは、そのための手段という位置付けになる。
もっとはっきり言えば、主役は、身体。ヒモトレは、主役を引き立てる小道具なのである。
これは、フェスの趣旨がそうだ、というだけではない。
そもそもヒモトレとは、そういうものなのである。
一見、細かいところだけど、ここを間違えると、ヒモトレはむしろ自分の首を絞める(身体の可能性を狭める)方向に働いてしまうこともある。
でも、ここが実は、すごく間違えやすいところなのである。
今回、僕は自分のプレゼンでまず、楽器演奏時にヒモトレをすると音やリズムが良くなった、というケースの動画をいくつも紹介した。
こんな感じのやつね。バイオリンの動画です。
ヒモなし
けっこう、劇的な変化だと思う。事実、この動画が流れた時、会場では「ホォ〜」っていう感嘆の声が一斉に上がった。
ヒモトレ、すごい。
そんな風に感じるのが、普通の反応だろう。気持ちはわかる。僕も最初はそう思った。
でも、、この種の現象を、「ヒモトレすごい」っていうスタンスで受け取めていると、、、
徐々に、心の中でのヒモトレの位置付けが依存的になっていって、、
やがて、ヒモによる変化が現れにくくなったりする。
あるいは、ヒモを巻いて演奏する行為が、楽しくなくなったりする。
ココロないしカラダの内面の大切なポイントが、何か、ずれてしまうのだ。
実際、僕自身、何度もそんな状況に陥って、あれーなんかおかしいなぁ、、というところをグルグルと回った経験がある。
ちゃんとヒモ巻いてるのにこんな風になるなんておかしいなぁ、どうしたんだよ、みたいな気分。
これはもう、どこを見て音楽やってるんだよ、って話なのである。
誰かに(ヒモトレに)褒められたくてやってるの?ってことになってしまうのだ。
すごいのはヒモトレじゃなくて、カラダ。
音楽をやりたい気持ちは、カラダから湧いてくる。そこが何より一番大事。
ヒモトレはそれを増幅ないし円滑化する装置にすぎない。めちゃ便利だけど、根源じゃない。
「カラダ、すごい!」
あるいは
「カラダ、面白い!」
こんなスタンスでヒモトレの作用を眺めていれば、ヒモを使うことで音楽が楽しくなっていく、と僕は思っている。
で、、自分のプレゼンの後半は、そういう趣旨のことをお話しさせてもらった。
(ここに書いた言葉遣いとはまたちょっと違う視点の展開だったけれど、まあ、趣旨は概ねこんな感じ)
他ジャンルで発表された方々も、こういう感覚はみなさんちゃんと共有していらっしゃる。それが感じられるから、嬉しいのである。
「カラダ、すごい」っていうのは、「命、すごい」ってことでもある。
あるいは、「生きてるってすごい」でもある。
だから、体のすごさに感動する視点を実感として持っていれば、命あるもの(自分や他人、そのほかの生き物も)を大切にする気持ちも、自然に出てくる。
それは一般的な心理学用語で言えば自己肯定感だろうし、アドラー的な言い方では共同体感覚(世界を信頼する気持ち)にもつながる。
さらには環境への関心とか、そういう意識のベースにもなる。
それほどの広がりを持つ世界への入り口が、「ヒモトレ」というツールによって、グッと敷居が低くなる。
だから、これほど多方面の分野の人が関心を持つんだろう。
2日目が終わった後の打ち上げで、ヒモトレフェスの立ち上げメンバーである藤田五郎先生と、同じテーブルでお話しさせていただいた。
「こんなに多分野の人が参加する会になった」ということを、ことのほか喜ばれていた。
医療や福祉、介護といった分野でヒモトレを活用する場合、治療的な意味で「効く」という要素は、絶対に不可欠である。そこが曖昧なものが入り込む余地はない。
その意味では、ヒモトレは実際に「効く」から、多くの人に受け入れられ、関心を集めているわけだ。
それはもちろん、すごいことだ。
だが一方で、そこには一つ落とし穴があるだろうと僕は思っている。
「効く」だけを基準にヒモトレを見ていると、上で触れた「ヒモトレ、すごい」にハマりやすいのだ。
で、、それに比べたら、、、アートという分野は、「好き」とか「面白い」とか「楽しい」といった主観的な価値判断で、何をどう評価しても構わない世界だ。
そういうジャンルの人が好き勝手なことを言ったり、肉体を使った迫力のパフォーマンスをぐわーっと披露してみんなの心を揺さぶったりすることが、「効く」一辺倒じゃないよ、って思い出すことに、もしかしたらちょっとは役にたってるのかもしれない。
大切なことは、言葉にならない。
・・・・・あー、でも、それを言葉に載せて伝えようとするのが、僕のミッションなんだな。笑
そういえば5年前にこんな本を出版した
スゴイカラダ | |
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