来年4月から始まる、総合事業(予防介護の訪問介護と通所事業が国ではなく市町村事業となる)でヘルパーは報酬を現状の7.5割に下げられるということに対し、問題を感じざるを得ない。
ヘルパーは2日間、12時間の研修を受ければ、掃除や買い物などの家事支援を、予防レベルの利用者に提供できる、ということである。
大阪市の施策について細かくいうのが目的ではない。
ヘルパーという仕事をどうとらえ、どう考えているのか、それが問題なのである。
「ご近所同志で助け合い」ができなくなったからこそ、「介護の社会化」の名のもとに「介護保険」制度が生まれたのだ。
考えてみても、自分の親が認知症になって、スーパーでお金を払うのを忘れたり、水道の栓を開けっぱなしで出かけたりするようになったら、息子や娘たちは安心して、仕事に出かけられるだろうか。
普段からよほどのコミュニケーションが構築されていなければご近所に頼める話ではない。
こんな場合、短時間の研修を受けた主婦が、ただ、買い物代行や掃除代行をして済むだろうか。
認知症は進行していき、困った家族が認定申請をして、要介護者と認定されるのに時間はかからないであろう。家族が心配しながらもどうしてよいかわからなくなる。仕事を辞めていく人も出るであろう。
だから、専門の勉強を積み重ねて、経験のあるヘルパーの対応が必要で、ケアマネージャー、医師やさまざまな専門家がチームを組んでケアに当たり本人の重度化を予防する体制が必要なのである。
脱水、便秘、不安、薬の副作用、栄養不足、おとしよりはさまざまの要因で心身が不安定になる。
介護ヘルパーは「命を守り」、「利用者の変化をとらえ、それを改善するためににどう働きかけるか」、「生活の質を向上させるのにはどうしたらよいか」を考えながら、支援を行うもので、その作業のみを行って(利用者を見ないで)いる代行業者、お手伝いさんではない。
疑似家族的な側面もある、精神労働である。
社会に訴えたいことはそのことである。
イタリアンでお疲れ会。