8月8日(月)23時53分、
kizは家族に囲まれながら無事に誕生した。
翌日はとなりに寝ているkizを見ると
達成感と我が子の可愛さで
産後の疲れも吹っ飛んだ。

さっそく、授乳とオムツ替えの日々が始まった。
しかし、おしっこは出ているものの、
胎便は出ていない。
また、産後間もないとは言え、
おっぱいを飲んでくれない。
何も飲んでいないのに吐くし、
お腹もパンパンに張っていた。
その状態が2日続き、異常に気づいた助産師さんが
その産婦人科に週二回来ている小児科の先生に見せてくれたところ
検査の為に病院を移って詳しく診た方がいいと言われた。

生後2日で私たちは離ればなれになってしまった。

それから3日して私は産婦人科を退院。
それからは小児科のあるT病院に通う日々となった。
新生児室の保育器の中で裸ん坊でうつぶせになり、
点滴されているkizを見て、涙をこらえた。
家に帰ると、出産間もなくで出づらい母乳を
痛みに耐えながら無理矢理しぼり、やっとのことで溜めて冷凍し、
病院に運ぶという事を続けた。
病院は一週間で退院する事ができた。

退院時、先生によると
kizは体重の減りが著しいので、便が出づらいことはさておき、
とにかく体重を出生時くらいに戻す事を先決しなさいとの事。
一週間後にまた受診する事となり、それまでの間は
お腹をギュウギュウに押して力ずくで便を出す
「の」の字マッサージや、
オイルに浸した綿棒をお尻に入れて刺激する
「綿棒浣腸」でお腹の張りを抑えるとともに、
2時間に一度の授乳を徹底して行う事となった。

kizはよく泣くので、
それがお腹がすいているのか、オムツが汚れているのか、
それともお腹が張っているのか、理由が他の子よりも多いので
新米ママの私には難しかった。

一週間なんとか必死にこなし、迎えた受診日。
言われたのは、
また体重が減っているとの事。
あのがんばりは一体なんだったのか。
ショックだった。

次、また一週間後に受診することになり、
それまでの間、今度は、量がわかるように
搾乳した母乳を哺乳瓶で飲ませる事になった。

一般的に、母乳は手で搾って出していても
赤ちゃんに吸われないと
次第に出なくなってくるのだという。
しかしながら、
あくまでも目で見て量がわかるように
毎回搾乳して飲ませるということだから、
それはそれは大変だった。
時にはミルクに頼ったけれど、
なるべく母乳でがんばった。

その時の私は家族から見て
見るからに必死で、余裕が無かったのだそう。
今になって振り返ると確かに自分でも
精神的に追いつめられていたと思う。
とにかく夫にあたっていた。
平日は離れて暮らしているから、
子育ては私一人。
(いや、私の家族にも大いに頼っていたけれど。)
それなのにあーすればいい、こーすればいいと
口だけで言うもんだからイライラした。
実際にギスギスした関係になっていたと思う。
何度も泣いた。


次の受診の日。
先週まで深刻だった先生の顔から笑顔が。

「お母さん、よくがんばったね、体重増えてるよ。」

その言葉で思わず涙があふれた。
出生時とほぼ同じくらいまで体重が増えていた。
ホッと一安心した。
が、
まだどこか胸につかえが残る。
そうだ。
まだ便のほうの問題が解決していない。
先生から、
「来週、コドモックルの先生が来るから、
その先生に診てもらいましょう。」との事。
そうすれば理由がはっきりしてすっきりするでしょ、と。
コドモックルとは、北海道立子ども総合医療・療育センターの通称で、
道内のあらゆる病院で手に負えない子ども達が集まる病院だ。
結局T病院では、便が出ていない理由はわからなかった。

翌週、コドモックルの先生に診てもらったところ、
すぐにコドモックルに入院して精密検査をしたほうがいい、
との事だった。
その日は先生に診てもらったら
原因がわかってすぐに帰れると思って軽い気持ちでいたので驚き、
そしてまた重い病気なのではと不安になった。


その足でコドモックルに向かった。
T病院は札幌市東区に、コドモックルは手稲区なので、
自宅からはコドモックルのほうが近い。
自宅が通り道だったので、軽く入院の準備をしていった。
まだどのくらいの入院になるのかがわからなかったが。

病室は2人部屋に1人だったので、
あまり気兼ねする事無く過ごせた。
ただ、付き添い入院する私の寝床はすごく簡易なものだった。
また、私の食事は出ないので、家族に毎食分を運んでもらう事になった。
数日間はいろいろな検査をしながら過ごした。
主治医の先生から、
「新生児には多い便秘のひどいものという事で済めばいいけど、
最悪疑わなければいけないのは、ヒルシュスプルング病です。」と言われた。
ヒルシュスプルング病は、私もT病院に入院していた頃から
インターネットで調べて知っていた病気で、
腸の一部に神経が無く、ぜん動運動が出来ないので
便が排出できないというもの。
赤ちゃんがお腹の中で成長する過程で、
消化器は口から肛門に向かって神経ができていく。
その成長がなんらかの理由によって
途中で止まってしまうという先天的な病気なのだ。

数日後、肛門近くの組織を取って神経があるかどうか調べる検査が行われた。

検査の結果は、その最も恐れていたものだった。

「ヒルシュスプルング病です。」


調べていてある程度覚悟が出来ていたせいか、
意外に気持ちは落ち着いていた。


今後の治療について先生から説明があった。
簡単に言うと、悪い部分を切除すれば治るのだが、
その手術は今のkizにとっては負担が大きすぎで
体重が6~7キロになるまではできないのだそうだ。
では、それまでどうしたら良いのか。
それにはまず、人工肛門を増設し、




























この一年は本当にいろいろあった。

傷心旅行として行った増毛で出会った彼との結婚。
そして、妊娠、出産。
一年で起こった事とは思えないほどの充実ぶりだった。

結婚、妊娠、出産を報告し、とても感動的に受け入れてくれた
元彼の家族。


生まれてきた我が子に見つかった病気。
それがわかるまでの一ヶ月間の苦悩。

知ってしまった彼の秘密。


少しずつここに書いていけたらと思う。

のぞうさんとまめ

観てきました、
噂のモーガン夫妻


まさに私好みラブラブ!の映画でしたドキドキ

サラジェシカパーカーヒューグラントも大好きだったからなおの事。


ヒューグラント独特のイングリッシュジョークが炸裂する
笑いあり、ドキドキドキドキありのなんともかわいらしいストーリーでした音譜


倦怠期を迎えたカップルが
二人の愛を再確認するのにぴったりの映画です。


Stevie Wonderの“We can work it out”もすごくハマってる音譜
ビートルズの原曲も大好きだけどラブラブ

沈んだ気分を少しでも晴らせるように、
なるべく外に出るようにしている。

映画はいいね。


恋するベーカリー食パンみたよニコニコ
メリルストリープ、モテモテだったな~。

年配の人も多く観に来てたけど、
わりと際どいシーンも多くてちょぴりビックリしちゃったショック!


次は噂のモーガン夫妻をみにいく予定。
ホントは今日行きたかったけど、
最近あまり家にいなかったから
今日はまめとのんびりしよう。


$のぞうさんとまめ




毎週金曜日は
彼のお参りに行っている。
彼の家族も「本当の家族になりたかったねー」
って言ってくれたりと
すごくかわいがってくれている。

私にとって泣ける場所は、
私の部屋か
彼の家しかない。

周りにはなるべく心配かけたくないから。


私が彼と過ごしたのはわずか1年だったけれど、
彼の私への気持ちを、彼の家族もそれとなくわかっていてくれているから
認めてくれているんだと思う。
彼がそういうふうにしてくれているんだと思う。


毎週金曜、仕事が終わってから彼の実家へ向かう。
彼の両親とお姉さんと私で、彼が好きだった料理を食べながらお酒を飲む。
それが恒例になってきている。

四十九日が過ぎたらたくさん彼の思い出の場所に連れて行ってくれると言う。


彼はもういなくなってしまったけど、
もっとたくさん彼を知りたいから
すごく楽しみ。



新しい生き甲斐を見つけるのは
まだ先でいいと思っている。

心の傷はいつか自然と癒えるだろう。



大丈夫。

一生忘れることはないよ。



1年間一緒に暮らし、
まめのお父さんでもある彼が
最近亡くなった。

37歳
脳出血


別れてから4ヶ月くらい経っていたけど、
毎日彼のことを考えていた。
私から別れを決めたのに。


時間が経てば忘れられると思っていたけど、
こんなことになってしまって、一生忘れることのできない人となってしまった。


体の不調は知っていた。
時々具合悪いというメールをもらっていた。
後に彼の家族と話したら、
家族には一切そんなことは言っていなかったそう。

私には弱音を吐けたんだね。
それなのに私は、

「大丈夫?」
「何かあったら言ってね。」
ってそれだけ言って、
自分のことしか考えずに過ごしてた。



彼と過ごした1年は本当にいろんなことがあった。



職場で出会った私たちは、
飲み仲間だった。

彼は9歳年上で、
大人でやさしい彼を私はすぐに好きになった。

札幌の中央区だけど山奥の彼の家に
転がり込むように同棲生活が始まった。
一軒家で広い敷地。
自然に囲まれていて
毎日がリゾート気分。


仕事が終わって
一緒に車に乗り、
夕食の買い物をして帰るのが日課。
映画好きな彼は
ほぼ毎日何枚もDVDを借りて帰った。


二人の生活が寂しく感じてきた時、
まめがやってきた。

休日にはまめを連れてドライブに行ったり、
ドッグランに行ったり、
本当に幸せな日々だった。


彼のために食事を作るのが大好きだった。
何を作っても喜んで食べてくれる。
お酒好きな私は、
お酒に合うものしか作れなかったけど、
そんな私に合わせてお酒を付き合ってくれる優しい彼。


普段は強面だけど、
私の前では甘えん坊。
毎日耳かきしてあげてた。


記念日にはサプライズでプレゼントをくれたり、
ロケの帰りには必ずお土産を買ってきてくれたり、
人を喜ばせることが好きな人。
私の誕生日の旅行では、
ホテルの部屋に花を用意してくれていたり
細かいプレゼントを小出しにしてくれたりもした。
こんなに幸せでいいの?っていうくらいに幸せだった。


本当に本当に大好きだった。



ただ一つ、
カッとなりやすいところがあった。
いつも些細なことだったけど、
それが重なって
次第に耐えられなくなって、
私は実家に戻ることになった。

それから4ヶ月、
お互いに忘れられなくて
何回か2人で会ったりもした。


彼が亡くなる1週間前に
「やり直したい」
と言ってくれた。
「好きだという気持ちだけでついたり離れたりするのはいけないと思う。」
といった私に、
「好きだっていう気持ちだけが、背中を押してくれるんじゃない?」と彼は言った。

そこから少しずつ歩み寄っていけると思っていた。


2月15日(月)、私は会社を休んでいた。
夕食を食べようとしていた時、
会社の人からの電話が鳴った。
どうせ、仕事のことで何かあったんだろうと思っていたら、

「実は、訃報があってね。○○さんが亡くなったんだ。」

会社では私たちの付き合いは内緒にしていたけど、
ほとんどの人が知っていて、
事情を知っている人が教えてくれた。


すぐに彼の実家に駆けつけた。


嘘じゃなかった。


眠るように彼は白い布団に横になっていた。



彼の両親の好意で、
それから告別式まで彼のそばにいさせてくれた。



15日(月)、出勤してこない事を不振に思った会社の人が
彼の家に駆けつけたところ、

車がある、
チャイムを鳴らしても応答が無い、
ケータイに電話しても中で着信音が聞こえる、
カーテンが閉まっていて電気もついている、
もちろん鍵が閉まっている。
これはおかしいと、
レスキューを呼んだ。
窓をやぶって家に入ると、
廊下で彼は倒れていたという。


13日(土)の夜中に脳出血を起こして、
一瞬の事だっただろうと。



たばこも吸うし、
寝る時間もまちまち、
食事もまともに摂ってなかっただろう。



わたしが一緒にいれば。

そればかり考えてしまう。

ごめんね。
ごめんね。
ごめんね。


一人であの大きなお家で寂しかっただろうね。





会いたいと思ってても
別れたんだから、
次の恋を探さなきゃいけないから、
と、
無理矢理忘れようとしてた。

「戻ってきて」って言われても、
私がいない寂しさを少しは味わえばいいんだ、
ぐらいに思ってた。

そんな風にひねくれた考えをもった自分が心から憎い。


まさか一生の別れになるとは思っていなかった。
むしろ、心のどこかではまたあの家で一緒に暮らす日が来ると思っていた。

別れ話をした時の言葉が
心の中でこだまする。




今までありがとう。
一生忘れないよ。