Masakoのブログ

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【天に神あり、地に心あり、人生誠以て貫く】
森村武雄(森村設計会長)

【1日1話、読めば心が熱くなる
365人の仕事の教科書】

(感想)
二人の大切な人を亡くすというのは
両手をもぎ取られ
谷底に落とされた感じだったでしょう

主人を突然亡くしたときは
そうでした

3月は
東日本大震災があった月
10年前の今頃だと思います
私も何かできることはないかと
考えていました

主人は会社の同僚に
震災に遭われた方のボランティアに
誘われました

まだ、2週間しか経っておらず、
現地はすべてのインフラが止まっている状態

行き帰りバス車泊
現地で一日お手伝いをするというものでした

水も食べ物もないから
水と食料、
必要なものは装備して
彼は長男を誘って行きました

想像を絶する状態だったと。
お手伝いさせていただいた家は
二世帯の家
若い夫婦には断られたけど
親夫婦のお手伝いをさせていただいたと

現地の人に何かできないかと思っていた私は
主人と長男が行ってくれたことは
ほんの少しでもお役にたてたと
感じることができました

それから1年後、主人の突然死

亡くすということは
震災で身内を亡くすのと同じ状態

いや、違う
地震の恐怖、家を失くす
自分以外の全ての家族を亡くした人もいる

彼は優しかったから
震災で亡くなった方に
頼りにされちゃったのかもしれないと

どんな状態であれ
突然大切な人を亡くすってことは
想像を絶する辛さ

主人は眠ったように亡くなっていた主人
肉体のあるうちにと
主人の肩や胸を触り、
葬式のとき、
「暖かくなってきた」って叫んだ気がする
主人の姉が「どこどこ」って
みんなもどってほしかったんだな

それでも
今生きている命を生きなければいけない

葬式、法事は
残された家族が
癒される時をつくる時間

百カ日のとき、
同僚と計画していた
介護施設を開設することを決心した

多額の借金
全ての責任を負うこと
経営なんてしたことがない
スタッフは集まるか
お客様は?
24時間休まらない
何かあったらどうする?

そんな不安から
断ろうと思っていたのが
主人の死から
考えてなかった

そんな不安より
主人の死から逃れたい

彼の両手を広げて
亡くなっている姿

人は何も持っていけない
今、生きているうちに
今できることを精一杯やろうと
思いました

天に神あり、地に心あり、人生誠以て貫く

天からいただいた命
地に肉体を持ち行動できること
その体をもってどれだけ貢献していけるか

自分ができることを
精一杯やっていくのが
命を使うということ

天命からいただいた使命

(内容)

アメリカに派遣した弟の豊
初期の礎を作るのに彼の功績は大きい

夜は倉庫の箱の中で寝る
パンをかじって済ませるとか
大変な辛酸を嘗めて
そのためか
体を壊して
早く亡くなった

市左衛門は同じ年に
一人息子、明六も亡くしている

当時のことを
「たいていのことには屈しないつもりでおった自分も
一時はほとんど呆然として左右の手を失ったような気がしました。
自分はこういうことを考えました
いつまで悲しんでも
結局無益なことである(略)
これを機として
精神を奮い起こし、
ますむす身体を強壮にし
両人の精神を受け継いで
大いに奮闘しなければならぬ」と

市左衛門は
二人の葬式の香典と
森村組の重役の出資をもとに
「森村豊明会」
という財団をつくり
公共事業や慈善事業を起こした

これからの日本を背負って立つ
若者を育てること
母親を育てる女子教育が大切と
森村学園の設立
慶應義塾大学、早稲田大学
日本女子大学に助成した

明治大正を通して行った助成の記録がある

「金額回数不詳」と書いてあるところに
「北里研究所」がある
明治25年に最初に助成している

市左衛門が
弟の豊を慶應に行かせようとした時は
彼はまだ13歳だった

他の家に奉公に行っていたのを呼び寄せて
貿易に乗り出す決心を話す
豊は
「兄さんがそう言うなら
私も国のためにやりましょう」と
慶應に入って勉強した

二人は歳が15歳離れていた
アメリカに行かせるのに
お金がなく
妻のかんざしまで売って
旅行費用を作った

福沢先生は
「名前も名誉も金も要らないという
そういう変わった奴は市左衛門だ」と
当時としても異質な人間だった

祖父のモットーは
「正直、親切、勤勉」

祖父は私が生まれる6年前に亡くなり
直接会うことはできなかったが
この教えは
森村設計の社訓の最初に掲げている

祖父がよく言っていた言葉
「天に神あり、地に心あり、
人生誠以て貫く」

額に飾ってあったが
戦争で焼けてしまった
次男はここから字をもらって
「誠」という名前にした