1854年

ペリーが二度目の来航をして、窮地に立たされた日本は「日米和親条約」を結びます。下田と函館を開講し、日本が大きく変わる幕末維新の時代へと変わっていったのです。

そして、この年に茨城の農村で産声を上げたのが・・・


先生 その239


今日は迎え盆、我が家にご先祖様が一時帰省する日です。

ありがたいことに、家族全員でお墓に迎えに行くことができました。ご先祖様たちは、我が家のご宝前でくつろがれていることと思います。


自分のルーツを調べてみたくなって、原謄本を取って調べたことがありました。

残念ながら、ご先祖様の生年月日で遡れたのは、5代前の茂重さんという方まででした。この方が今の我が家の初代であり、生まれたのが1854年だったのです。


初代の茂重さんにまつわる伝説を、亡くなった祖父さんから聴いたことがあります。

幼いころに弟と弓矢のおもちゃで遊んでいて、誤って片目を失明させてしまったとか・・・。長男が家督を継ぐのが当たり前だった時代に、茂重さんは目が不自由になった弟に家督をゆずり、自ら分家となります。

当時の日本は、幕末から明治維新という激動の時代だったのですが、この茂重さんの独立もまた、稲葉家として、新しい時代の夜明けだったのかもしれません。


ちなみに茂重さん夫婦、祖父母、そしてボクの父母はすべて茨城県出身なので、ボクはかなり純血に近い茨城県人です。

直系のご先祖で言うと、父方の曾祖母は新潟出身なので、完全な純血ではありませんが、おゆきちゃんの出身も茨城なので、子供たちはさらに血が濃くなっていますあせる


ボクの命は、何人のご先祖様から受け継がれた命なのだろう?

改めて数えてみると、両親(2人)、祖父母(4人)、曾祖父母(8人)、曾々祖父母(16人)と、茂重さんまでですでに30人の存在があります。

ボクが生まれたのが1971年ですから、117年の間に15組の夫婦、30人のご先祖様が存在してくれたことになります。


これが200年、300年遡ったら、数えきれないくらいの命のリレーがあるはず。今出逢っている人たちも、10代,20代遡ったら、どこかで親戚として繋がっているのかもしれません。


ボクは毎朝、仏壇に手を合わせる習慣があります。

曾祖父より先に亡くなったご先祖様には、遺影も肖像画もありません。だからこそ、お盆の時期になると、歴史浪漫のようにご先祖様への思いが広がるのでしょうね。

どうぞ、これからも僕ら家族が仲良く暮らせるように、見守っていただきたいと思います。