白い女の電話ボックス
序章
埼玉県さいたま市大宮区――この街には、昔から奇妙な噂が囁かれてきた。大宮公園の近くにあった電話ボックスにまつわる都市伝説、その名も「白い女の電話ボックス」である。深夜、その電話ボックスに入るとガラスに女性の顔が浮かび上がり、帰り際に背後から霊が声をかけてくることがあるという。そして「決して振り返ってはならない」と人々は口々に警告するのだった。長い黒髪に白い服を着た女の幽霊――そんな話を、地元の高校生だった私は半信半疑で聞いていた。
高校の友人たちの間でも、この白い女の噂はちょっとした話題になっていた。十数年前のインターネット掲示板には実際に「見た」という書き込みが相次いだとも言う。例えば「夜中に電話ボックスで白い女の霊を見た。絶対にあれは生きた人間じゃない…」というような証言だ。怖いもの見たさの年頃だった私たちは、その電話ボックスに肝試しに行ってみようということになった。夏休み目前の蒸し暑い夜、更けた大宮公園は虫の声だけが響き、人影もまばらだった。街灯に照らされた公園の片隅で、ぽつんと佇む電話ボックスが目的の場所だ。私と親友のAは緊張で喉が渇くのを感じながら、その古びた電話ボックスへ足を踏み入れた。
遭遇
ボックスの中は薄暗く、ガラス越しに公園の木々が揺れているのが見える。錆びついた扉を押し開けると、中に湿った空気が淀んでいた。受話器はしっかりフックに掛かっている。しかし、どこかおかしい。背筋にじわりと冷気が走った。「ここ…本当に出るのかな」Aが震える声で言う。私は強がってみせようと、「平気さ。ただの噂だろ」と笑った。しかし内心の鼓動は早まっていた。
午前零時を少し回った頃だろうか。ボックスの中で息をひそめていると、外の街灯が一瞬ふっと明滅した。その刹那、ガラスに何かが映った気がして、私はハッとして顔を上げた。ガラス窓の向こうに、女の顔が貼り付いている。 それは蒼白く、濡れた長い髪がガラスにべったり垂れていた。目が合った――ぞっとするほど冷たい目だ。私は思わず息を呑んだ。「…う、嘘だろ…」隣にいるAの声がかすれて聞こえる。次の瞬間、電話ボックスの天井灯がチカチカと瞬き、受話器が勝手にガチャリと外れた。
「や、やばい!」恐怖に駆られ、私たちはボックスの外へ飛び出した。胸が潰れそうなほど心臓が暴れる。暗闇に目が慣れたその時、背後からカタ…カタ…と音がした。振り向きたい衝動を必死でこらえながら、私はAの腕を引いた。「走れ!」二人で公園の小道を全力で駆け出す。後ろで誰かが立て付けの悪いボックスの扉を開け放つような音が響き、続いて女のすすり泣く声が微かに聞こえてきた。――「…待って…行かないで…」まるで耳元で囁かれたように感じ、私はゾッとする。「振り返るな…振り返るな…」頭の中で先程の警告が木霊する。恐怖に足が竦みそうになるのをこらえ、私は闇雲に走り続けた。Aも青ざめた顔で無言のまま必死に走っている。
公園の出口が見え、大通りに差しかかろうとした瞬間、Aが「うわっ!」と短く悲鳴を上げてつんのめった。見るとAの足に何か白い手のようなものがしがみついている!私は反射的にAの腕を掴み、勢いよく引っ張った。「離せ!」Aが蹴り上げると、白いそれはスッと消えて、二人は転がるように大通りへ飛び出した。街灯とコンビニの明かりが眩しいほど目に入り、私たちはようやく振り返った。もう背後に人影はない。先程までの気味の悪い冷気も嘘のように消え失せていた。
ゼェゼェと肩で息をしながら顔を見合わせ、私は生きている実感に震えた。Aの膝は擦りむいて血が滲んでいたが、幸い大きな怪我はないようだ。遠くで車が走り去る音がし、現実に引き戻される。私たちは唖然としながらも無言で頷き合い、その場を後にした。夜風に吹かれ汗が冷えてくると、恐怖と安堵が入り混じり涙がこぼれそうになった。振り返れば、公園の暗がりの中にぽつんと電話ボックスが佇んでいるのが見える。しかしもう二度とあそこへは近づきたくなかった。
真相
あの夜の出来事で、私はすっかり取り憑かれたように「白い女」の正体を知りたいと思うようになった。無事に逃げられはしたものの、あの顔と声が頭から離れない。なぜ彼女は電話ボックスに現れるのか? そう考え始めると恐ろしさより好奇心が勝ってきた。数日後、私は自宅のパソコンでこの電話ボックスの噂について改めて調べ始めた。
ネット上にはいくつもの心霊体験談や噂話が転がっていた。その中に、私たちが体験したのと酷似した証言を見つけたときは、背筋が粟立った。
「川沿いの道を自転車で走っていたとき、視界の端に白い服の女性が電話ボックスの中にいるのが見えました。私はすぐ“生きた人間じゃない”と思い、大通りへ逃げました。裏路地を抜け神社の近くを通りかかったとき、急に自転車が重くなり、誰かもう1人乗っているような感覚でした。しかし振り向かずに力一杯ペダルを漕ぎ、旧日光街道まで出たところで急に自転車が軽くなったんです…」
これは15年ほど前に投稿された体験談のようだった。投稿者もまた、白い服の女性に追いすがられる恐怖を味わったのだ。自転車が重くなるという描写は、Aの足に白い手が掴みかかったあの感触を思い出させた。私たちと同じように、振り向かなかったことで何とか逃れられたのだろう。その書き込みの末尾には「薄暗くなった夏の午後7時頃の出来事です。その電話ボックスも今はあるかわかりません」と記されていた。どうやらこの怪異は時間帯も場所も違わず同じらしい。背筋に冷たいものを感じつつも、私はさらに調査を続けた。
別の資料には、その電話ボックスでの怪異がピークに達した時期についての言及もあった。どうやら今から20年近く前、2000年前後に目撃談が相次ぎ、「電話ボックスで女の霊を見た」「声をかけられた」という噂が地域の掲示板を賑わせたらしい。中には「トンネル出口の電話ボックスに人影を見たら必ず事故に遭う」といった他所の心霊スポットと混同したような怪談まで飛び交っていた。それほどまでに、この白い女の話は当時の高校生や若者を中心に広まっていたようだ。私とAが耳にしたのも、ちょうどそうした怪談ブームの名残だったのだろう。
では白い女の正体とは何なのか?私はついに、地元の図書館で当時の新聞記事に行き当たった。そこには、今は亡き大宮公園前の電話ボックス付近で起きたある事故について小さく報じられていた。
1996年の夏の深夜、電話ボックスから通報してきた女性が意識を失い、その後死亡が確認されたという記事だった。発見当時、女性は電話ボックス内で受話器を手にしたまま倒れていたらしい。どうやら近くの交差点で交通事故があり、女性の婚約者だった男性が即死。助手席にいたその女性も重傷を負い、必死でボックスまで這うようにして辿り着き、救急車を呼ぼうとしたが力尽きてしまったようだ。記事には女性の名前も載っていたが、私は何となくそれを見る気になれず、そっとページを閉じた。脳裏には、ガラスに貼り付いていたあの悲痛な顔が浮かんでいた。助けを求めたかったのに無念のまま亡くなった女性……。
彼女が今もあの電話ボックスに囚われているとしても、不思議ではないと私は思った。かつて多くの目撃証言があったのも、その事故直後の時期だったのだ。ひょっとすると彼女は、自分の存在に気づいてほしくて、人々に姿を見せていたのかもしれない。
真相を知った私は、あの白い女に対する恐怖が少し和らいだ気がした。同時に、激しい哀れみと悲しみが胸にこみ上げてきた。彼女はきっと今も待ち続けているのだ。助けが来るのを、あるいは愛する人の名を呼びながら…。
私はあの夜、背後から聞こえた「待って…」という掠れた女の声を思い出していた。あれは私たちを呪おうとするものではなく、純粋に助けを求める声だったのではないか。そう考えると、いても立ってもいられなくなった。私は供養の意味も込めて、花束を持って大宮公園へ行ってみる決心をした。怖さはあったが、それ以上に彼女を弔いたいという気持ちが勝ったのだ。
結末
後日、私は夕方のまだ明るい時間帯に一人で公園へ向かった。Aは「やめておけ」と心配したが、私は大丈夫だと笑ってみせた。公園入口近くの歩道脇に自転車を止め、そっと周囲を見渡す。しかし肝心の電話ボックスが見当たらない。あったはずの場所には更地のような空きスペースがぽっかり空いていた。雑草が茂り、周囲を囲む歩道の縁石だけが当時の名残を留めている。
どうやら電話ボックスは撤去されてしまったようだ。利用者も減り、老朽化した公衆電話が数年前にまとめて撤去されたという話を思い出した。「そうか…。これで良かったのかもしれない。」私は小さく息を吐いた。もはや彼女が姿を現す場所もなくなったのだ。これで霊も成仏してくれれば、と願いながら、空き地の片隅に花束を手向けた。
茜色の夕焼けが公園を照らし、蝉時雨が降り注いでいる。あの恐ろしい夜とはまるで別世界のような穏やかさだった。私は合わせた手をゆっくり下ろし、最後に一度だけ跡形もなくなった電話ボックスのあった場所を見つめた。「もう、出てこないでください。どうか安らかに…」そう心の中で呟く。すると、ふとどこからか微かな電話のベルの音が聞こえた気がした。耳を澄ますが、もちろん公衆電話などもう無いのだから何も聞こえるはずがない。気のせいかと首を振り、足早にその場を立ち去ろうとした。
そのとき――背後で「プルルル…プルルル…」と甲高いベルの音が鳴り響いた。確かに聞こえる。私はハッとして足を止めた。振り返りかけて、思わず身体が固まる。夕闇迫る公園の茂みから、音の正体のないベルだけが鳴り渡っていた。
ありえない。撤去された電話が鳴るはずがない。
なのに、この音は一体…。心臓が早鐘を打つ。遠くでカラスが一声、不吉に鳴いた。私はゆっくりと振り向く――そこには何もないはずの空間に、白い服の女が佇んでこちらを見つめていた。薄暗い中でもはっきりと分かる、まるでそこだけ切り取られたような白い人影。黒い髪が風もないのに揺らめき、青白い顔には寂しげな表情が浮かんでいる。私が息を吞むと同時に、音のない受話器を片手に女がスッと手招きをした。反射的に目を閉じた次の瞬間、ベルの音も気配も唐突に途絶え、静寂が訪れた。恐る恐る目を開ける。しかし、辺りには誰の姿もない。ただ風に木々がざわめいているだけだった。
私は震える足取りで自転車に戻り、ハンドルを握りしめた。冷や汗が背中を伝っている。遠く大宮駅へ向かう道路の喧騒が日常の音として耳に飛び込んできたとき、私はようやく現実に戻った気がした。ペダルを踏み出そうとして、最後にもう一度だけ公園の方を振り返る。夕闇の中、大宮公園の木立の奥に小さく白い人影が立っているのが見えた。
電話ボックスはもう存在しない。それでも彼女は今もなおあの場所に立ち尽くしているようだった。私は思わず胸の前で手を合わせ、「どうか安らかに」と祈った。風に乗って聞こえた気がしたのは、「ありがとう」と囁くような声だったのかもしれない――。しかしそれも一瞬のこと、次に顔を上げたときには白い人影はすでにどこにも見当たらなかった。
日の落ちた帰り道、自転車を漕ぐ私の耳に、かすかなベルの音の残響がいつまでも離れなかった…。背後を振り返ってはいけないというあの言い伝えが、ふと頭をよぎる。私はハンドルを握る手に力を込め、薄闇の中をただ前だけを見据えて走り去った。白い女の電話ボックスの怪談は今も語り草だ。しかしそれは噂話では終わらない、現実に起きた悲しみの物語なのである。私の知る限り、彼女の霊は消えていない。たとえ電話ボックスが無くなろうとも、大宮の地に白い女は静かに佇み続けているのだ…。
