僕は朝食を食べ終えると、会社に向かうため、スーツに着替えた。洗面所に立ち、まだ着慣れていないスーツ姿の僕を見た。慣れない手つきでネクタイを締めた。鏡に映る少し曲がったネクタイを両手で直し、ピンで留めた。





僕は早起きをした。今までの僕にとってそれは、もの凄く珍しい事だった。階段を下りてリビングへ行くと、母親が驚いた表情をした。中学時代、僕は毎日のように寝坊をしていた。母親はいつも部屋まで僕を起こしに来てくれていた、それが習慣となっていた。
「おはよう。」
「おはよう。あら、もう起きたの?」
母親が訊いてきた。
「うん。」
「珍しいことがあるものね、高校生にでもなったからかしら。」
僕は少し笑った。
「そうかもね。」
「新聞とって来てくれる?」
「うん、いいよ。」
僕は郵便受けに新聞をとりに行った。僕は新聞をテーブルの上に置き、冷蔵庫から牛乳を出した。コップに牛乳を注ぎ、パンが焼きあがるのを待っていた。僕はテーブルの上にジャムが出ていないことに気がつき、冷蔵庫まで取りに行った。母親はインスタントコーヒーをいれていた。僕が冷蔵庫の傍まで寄ると、母親がこう訊いた。
「どうしたの?」
「ジャムが出てなかったから。」
「そう、ごめんね。」
僕は母親のいれるインスタントコーヒーを眺めた。
「飲んでみる?」
母親がそう訊いてきた。
「苦いからいいや。」
まだ珈琲は僕の口に合っていなかった。まだ僕の口は幼すぎたのだ。大人の味と言うものは今の僕には理解しがたかった。しばらくすると、父親が起きてきた。
「おはよう。」
「おはよう。」
父親も驚いた顔で僕の顔を見た。
「なんだ、起きていたのか。」
「うん。」
「高校生になると変わるものだな。」
僕はその言葉が鼻に付いた。
‘うるさいな’
と僕は心の中で想った。
‘チンッ!’
パンが焼きあがった。僕はお皿にパンを取り、ストロベリージャムをつけて食べた。父親は珈琲を飲んでいた。僕は一足早く朝食を食べ終え、洗面所に向かい出かける準備をした。今日は高校の入学式だった。ブレザー姿の僕が鏡の中にいた。制服は少し大きく、着慣れていないのが良くわかった。僕の中学時代の制服は学ランだった。鏡を見ながら僕はネクタイを締めた。ネクタイは、いつでも簡単に縛れるように形作ったままにしておいた。学校に行く支度が終わったので、僕は自転車に乗って学校へと向かった。


校門の所に咲いている桜の木が僕を迎えてくれた。僕は桜の木を通りすぎ、自転車置き場に自転車を停めた。そして、もう一度校門の桜の木を見に行った。桜は満開で、見事なものだった。春の風が僕の背中の方から吹き、桜の木の枝が揺れた。桜の木の下に一人女の子がいた。もう一度風が、僕の背中の方から吹いた。彼女の長い髪を春の風が揺らし、桜の花びらが舞った。彼女は僕の気配に気づいたのか、振り向き僕の方を見た。その時、僕は彼女と目があった。少しの間僕らは目と目が合い、時が止まった。それが、僕と夏海の初めて出逢いだった。


入学式は体育館で行われた。体育館の入り口に、クラスわけの紙が貼ってあった。四クラスある中で、僕は三組だった。紙を良く見ると、何人か知っている名前があった。僕はホッとした。早めに来たつもりではいたが、体育館に入ってみるとすでに知っている顔が何人かいた。僕はパイプ椅子に腰を下ろすと、隣には同じ中学校で、同じクラスになったことのある松本君がいた。松本君は中学ニ年の時に同じクラスになったことがあったので、すぐに話すことが出来た。彼は優しかった。僕の緊張の糸が少しほどけていた。


入学式が始まると、僕はまた緊張をし始めた。校長先生の話が、僕にはもの凄く長く感じられた。
’早く終われ。’
と僕は心の中でずっと想っていた。意外にも入学式は早く終わった。僕等は新しい先生を先頭に新しい教室へ向かった。廊下の窓から桜の木が見えた。教室につくと、僕らは名前の順の席に着いた。僕の隣の席には、校門の桜の木の下で出逢ったあの女の子がいた。彼女と目が合うと、彼女は微笑んでくれた。




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