出来事は出来する。それは世界にアイオーン(永劫回帰)を刻む。

恐らく、永劫回帰が天地創造される瞬間というものがあり、そのとき一個の世界、一個の宇宙は稲妻のように走る出来事の閃光によって天と地とに引き裂かれる。

実にそのときにこそ神が世界に侵入する(聖なる侵入)のだといえるだろう。
すなわち虚無からの創造という不可能な事件こそが永劫回帰するのであり、同一的なもの・可能的なものが永劫回帰するのではないのだ。

意志から生じた運命が、世界の運命を狂わせて震わせ、既にある世界の上に全く異なる天地の創造が行われるとき、その恐るべき容器の破砕それ自体がいまここで起きるとすれば、それは天地創造であると同時に一個の宇宙を粉砕する峻厳苛烈な最後の審判でもあるだろう。

従ってYHVHの神、創造と破壊をもたらすこの最も恐るべき超越の神、怒りの神こそが永劫回帰しなければならず、従ってまた超越論的永劫回帰というべきものが構想されなければならないであろう。実にそれこそが、カントの単なる「判断力批判」を越えて、われわれが野蛮に求めねばならない二律背反の解なき解であり、それ以外には如何なる救済もありえないのだと知らなければならない。

重要なのは、まさにこの二律背反という大宇宙の裂傷を、塞ぐことのできないこの亀裂を、すなわち西欧高等魔術が〈深淵〉の名で名指している大宇宙の還元不可能な形而上学的根源悪を、聖なる神性分裂そのものを、世界の表面に浮き上がらせ、抹消する事の出来ない光の瘢痕として描き出してみせることなのだ。

救済とはこの傷だらけの世界を傷だらけであるがままに抱きしめてみせることである。それが魔術の目的であり、そしてまた、哲学のとりうるその最後の姿であるだろう。