承前


■Pは80→8に縮減しながら周易「易経」第八番目の大成卦〈比〉を指し示す。
 それは、意味深長にも、アリストテレスからハイデガーまで連綿と続いて、西欧形而上学の主張低音と成り続けた「存在の類比(analogia entis)」の思想を、この余りにも出来過ぎた偶然の魔法によって召喚してみせてくれている。

 偶然、それは九鬼周造も言うように、他のようでも有り得ることである。

 すなわちその〈他〉の様態は、ここにあるこの様態の背後に〈比〉として伏在しつつその背後に共示されているのだ。

 偶然とは、たしかにそれは一見その通りであるものの、実はその裏側において、むしろ全く他のようでこそあるのだということを背後に黙した真実として示すからこそ偶然なのである。

 そして「存在の類比」そのものにまさに比べるべきものこそが、より一層意味深長に〈運命〉的に重要な意味をもつ。

 そう、〈偶然〉がその秘められた真実を暴いて背後に翻るとき、もはやそれは〈ただの偶然では済まされないもの〉として〈運命〉を啓示するのである。

 PKDのシミュラークルの問題において運命的な余りに運命的なそのもの、つまり「存在の類比」そのものに比べるべきものとして「対比」されるのはドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の思想であり、まさにそれこそ『差異と反復』においてドゥルーズがスコラ哲学の古本の闇から自らの生き生きとしたその思想の中に召喚してきた魔法の怪物に他ならない。

 シミュラークルの世界を解放するのはまさに「存在の類比」の宇宙それ自体を破壊する「存在の一義性」の観念だからである。

続きは明日、また書くカモシレナイ。