Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-13 そして全ては覆われる

[承前]



 インドでは龍の前後が逆になり、龍は阿修羅の大王として現れる。《龍の尾》にあたるものはラーフ・アスリンダという魔王の頭となる。もう一つ、《龍の頭》にあたるものはケートゥと呼ばれる暗黒の彗星で、それぞれ漢訳されて《羅喉》《計都》と呼ばれた。11世紀ペルシャのアル・ビールーニーの博物学書『インド誌』に次のような説明がある。


《龍の頭はラーフと呼ばれ、尾はケートゥである。インド人はその龍の頭だけを用い、尾について彼らが記録したものは少ない。いっぱんに天空に現れるすべての彗星(尾をもつ星)はケートゥと呼ばれる》

 古代インドでは専らラーフだけが蝕の原因とされた。このラーフの神話は様々なヴァリエーションがあるが、最も有名なのは、ヴィシュヌに退治されたという伝説である。


 それは《乳海撹拌》という壮大な物語の後日譚だ。天地が誕生して間もない頃のこと、デーヴァ(神々)とアスラ(阿修羅)の二つの種族の争いが絶えなかった。デーヴァたちは強大なアスラの力を恐れ、メール山(須弥山)に集まり陰謀を巡らせた。このとき神々の長ヴィシュヌは一計を案じた。デーヴァとアスラ両種族の力を総動員して不死の霊薬アムリタを作ろうではないかと。


 こうして壮大なスケールで《乳海撹拌》が行われた。全世界から植物と種子が材料として集められ、それを大海原にぶちこんで巨大な乳鉢とし、メール山の東に聳えるといい、またヴィシュヌ神の居住地でもあるマンダラ山を撹拌棒にして、ちょうど牛乳からバターを作る要領で掻き混ぜようというのだ。マンダラ山には縄のかわりにヴァースキという巨大な龍王を巻き付け、ヴィシュヌ自身はクールマという巨大な亀に化身して軸受けとなり、それをアスラとデーヴァが両側から引っ張ってグルグルかき回した。
 こうしてアムリタは出来たが、ヴィシュヌはこのとき美女の姿に化けてアスラたちを色気仕掛けで騙し、目の眩んだアスラたちはアムリタの分配を美女に委ねてしまい、せっかくの霊薬を奪われてその分配に預かれなかった。こうしてデーヴァのみが不死の生命をもつ神々となり、アスラは非神として死すべきものの地位に甘んじなければならなくなったという。
 だが、アスラ族のなかでただ一人、狡智に長けたラーフだけはデーヴァに化けてこっそりとアムリタの分け前に預かった。これにすぐに気づいたのが太陽神スーリヤと月神ソーマで、彼らの密告を聞き付けたヴィシュヌはすぐさまチャクラの円盤を投げ付けて、ラーフの首を断ち切った。だがすでにアムリタを飲み込んでいたラーフは首から上だけが不死であったために生き延び、太陽と月を恨んで日月蝕を起こすようになったという。 最初、ケートゥは特にこのラーフとは結び付けられてはいなかった。しかし、西からヘレニズムの影響とともにに蝕を引き起こすドラゴンの神話が伝播してくると、いつしかインド人はケートゥをラーフの尾の部分だと考えるようになった。


 ※ところで、《龍の頭》をラーフとし、一方、ケートゥを《龍の尾》とする別説もある。更に、ケートゥを寧ろ月の遠地点とする解釈が『七曜攘災決』を根拠に可能になるという興味深い指摘が矢野通雄博士によってなされている。なお、同氏によればラーフは《龍の頭》つまり月の昇交点に等しい。矢野氏は『七曜攘災決』に記載されているラーフとケートゥの周期を紹介している。それによれば、ラーフは九三年で五周天し、ケートゥは六二年で七周天するという。(著者記)


 ラーフとケートゥは仏教占星術に取り込まれ、中国に伝えられて、『宿曜経』に続く『七曜攘災決』や『九執暦』に《羅喉》《計都》として現れる。今日、密教占星術として知られているものだが、このとき、中国に古来からある別系統の占星術、陰陽道の伝承が流れ込み、習合することになった。


 陰陽道のいう八将軍は中国起源の鬼神、そのうち黄幡神が羅喉と、豹尾神が計都と同一視されていった。《黄幡》《豹尾》ともに皆既日蝕のときに現れる太陽のコロナが、黄色い旗がはためくさまや豹の尻尾が靡くさまに似通うことからつけられた名前である。


 豹尾神はその名の通り、獰猛な豹のごとき性質をもち、恐るべき祟り神で、また、その方角に尾のある生き物を求めると伝えられている。
 だが、これよりも恐れられたのはやはり黄幡神であったようだ。その神の巡ってくる方角に家や門を建てれば大災厄を齎すといわれ、またこの黄幡星の見えるとき、つまり皆既日蝕のときには世界に凶事が走って騒然とし、この星の元に生まれた子供は、黄幡神の化身として世に害をなすとして恐れられたという。…… 確かにあなたは不吉な黄幡の徴の真下に生をうけてしまったのかもしれない。


 だが、一方、西洋占星術は別のことも告げている筈だ。そもそも日蝕のような天体現象だけで吉凶の徴とするような考えはキリスト紀元前七百年頃の古臭い占星術で、今はもう廃れている。そもそもそれをインドに齎したのはアレクサンダーの遠征だった。それがそのまま中国に、それから日本に伝えられただけの話ではないか。


 皆既日食の生まれであるとは、あなたはつまり新月のときに生まれた筈、だとすれば、運勢の上下は激しいが幸運な人であるはずだ。わたしはあなたの日蝕が、龍の頭と尾のどちらで起こったかを知らない。もし《龍の頭》で起こったのであれば、あなたは必ずや人望を集め、そして自らも努力家で向上心のある人である筈だ。またもし《龍の尾》でそれが起こったとすれば、やや不運なことに己れの弱さを隠そうとして周囲の協力を失いやすい傾向があるというが、それでもあなたは真実の人である。これは太陽と《龍の尾》の合(コンジャンクション)の場合が告げる一般的な出生天球図の暗示だ。


 いずれにせよ、あなたが世界に凶事を齎す不吉な存在だという暗示はない。


 寧ろわたしはあなたを乗せてきた偉大な象の徴を信じたい。
 象は以前に仏陀を齎したように、神の子の乗り物にこそふさわしい聖獣だ。


 《象》――Ele-phantとは、まるで《神(エル)が光の中に現れた》とでもいうかのような不思議な語ではないだろうか。それ自身、《神の啓示》を象徴するしるしではないだろうか。


 象が現れる――そうだ、わたしはファイネスタイというギリシャ語について森アキラから教わったことがある。
 現象を意味するその語と自然を意味するフュシス、それにそう、ファントム・ファンタジー・エレファントにも共通のphantという語根は、どれも元々《自らを示す》というファイネスタイから派生した語だとか……確か森はそんなことを言っていたことがある。


 象が現れる――まさしく《現象》ではないだろうか。それはつまり、神が御自らを示されたという徴ではないだろうか。


 しかし、神がそこで御自らを示される場処で、神は御自らを掩い祕されてしまう。象の徴のもとに演じられた《現象(phenomenon)》は、《掩蔽》 ――occultation/eclipse――《星蝕》という天文現象であり、「隠す」或いは「覆う」という出来事に他ならないからだ。