Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-10 エデンの奴隷と風の巨人

[承前]


 第二のアダムが土の塵から作られたとき、彼は一人だったし、与えられたのもエデンという小さな園に過ぎなかった。造られた動機も《土を耕す》という労働に従事させるためであって、楽園といわれるエデンでアダムというのは要するに農奴であり、隷属者に過ぎなかった。


 創造の七日目以降に作られた彼は、どうみても六日目に作られたアダムとは同一人物ではない。

 六日目に生まれた人間または人類は、はっきりと《支配させるために》作られたと書かれている。

 支配階級となるべき民族と被支配階級となるべき民族を神は別々の日に作ったのかもしれない。

 最初のアダムは初めから、エロヒームつまり神というよりは神々の像に合わせて――初めから神のように作られ、支配の運命を定められた。これに対してエデンのアダムは単に土を捏ねて作られただけの不格好な代物で、一行も彼については《神の像にかたどって》作られたとは書かれていない。


 このエデンの男は、神のようになるためには蛇の助けを借りて禁断の果実を食べなければならない隷民で、しかもこの咎のために神に呪われ、追放されてしまう。

 全く六日目に創造されたアダムとは対照的な扱いなのだ。


 その彼らは祝福されて広々とした世界へと出発する。《彼ら》と複数形で言うのは、彼らを送り出す神の次の言葉から見ても六日目のアダムが単に一人だったとは考えにくいからであるし、また既に見てきた《男と女に創造された》箇所でも複数形の『彼ら』という語が使われているからである。


 《産めよ、増えよ、地に満ちよ、そして地を征服せよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ》


 しかし、カバリストたちはこの《男と女に創造された》支配者の人々とエデンの孤独なアダムとを同一人物と考えるために、プラトンの考え出した原人アントロポースの伝説を援用し、創造の第六日目のアダムを(これをアダム・カドモンと彼らは呼んだ)両性具有・雌雄同体のアンドロギュノスであったと考えた。

 実際その箇所で用いられた語が、既にみたように雌雄を意味するに過ぎない語だったことがその根拠となる。男/女と言えば、それは立派に別々の人格的存在を意味してしまう。


 このアダムは七日以降にもう一度土の塵から生み出されるが、それはいわば身体を獲得するといった程度の意味となった。そしてこのときのアダムもやはり雌雄同体であった。肋骨摘出によって神は彼の雌の部分を取り出し、女として独立させた。だからこのとき初めて、男(イシュ)/女(イシャー)が一人の人間(アダム)から別れ出て誕生するのだ。


 それは、まるで一人の神シヴァ=イーシャーナ(伊舎那天)から伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神(命(ミコト〕)が別れ出てくるかのような魔法である。逆に言えば、原初の支配者〔イシャーナ〕たるシヴァ=アダム・カドモンのなかに伊邪那岐・伊邪那美という男と女は全く内在していたといってもよいのかもしれない。


 カバリストたちはあくまでも六日目と七日目以降の創造を連続した一人のアダムの段階的創造として捉えるために、六日目に於いて、既に全地に満ち、全地を征服し、全てを支配していた原初のアダム・カドモンは、たったひとりで宇宙全体を覆い尽くすような巨人だったと考えた。

 この状態はまさしくイーシャーナと呼ばれるときのシヴァの姿に合致する。
 というのはイーシャーナとは空間に広がって全てを包み、育む空気としてのシヴァの働きを特に表現した言葉であるのだから。

 『シュヴェータシュヴァタラ・ウパニシャッド』に次のように述べられている。


 《ルドラ神よ。慈悲深い顔付きで祭官を御覧になっていて下さい。人々に危害を加えるようなことはなさらないで下さい。最高のブラフマンが支配者(イーシャ)であり、それはあらゆるもののなかでもっとも偉大で、あらゆる姿をした万物の内に住み、全宇宙を包みこんでいるのだ、と知って、人々は不死となるのである》


 《願いをかなえてくれる神イーシャーナが子宮をすべて支配しており、万物はこの神から生じ、この神のなかに存するのだと知れば、人は永遠の安息・平安を得ることができる》