Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-9 アダムの肋骨と神の影

[承前]



 イーシャーナまたはイーシャというこの《支配者》を意味する梵語は、イエスの名前イェヘシュアを一瞬不可思議な共鳴に連れ込みながら、その震えをもっと古くへと溯らせる。それはヘブライ語で男及び女を意味するイシュ及びイシャーの語を震わせるアダムの最初の発声、最初の詩〔うた〕のところへとわたしを連れてゆく。


 そこは、ヤハウェ・エロヒームの手による女の創造に関する記述の箇所。
 ヘブライ語原典に即して読んでゆくなら、神はアダムを《深い眠りの上に》落とす。
 その眠りの上にまるで別の眠りを重ねるように、眠りそのものを自らの寝床に敷くようにして、アダムは眠る。


 この不思議な二重の眠りのなかで、肋骨(ツェラー)の摘出と縫合の手術がなされ、最初の女が創造される。禁断の果実を摘み楽園追放が決定するまでイヴ(ハヴァ/命)と呼ばれることなくただ無名の《女》としか呼ばれることのなかった彼の妻を、《女》(イシャー)という無名の名前でアダムは名付ける。


 《ついに、これこそ、わたしの骨からの骨、わたしの肉からの肉、これをイシャー(女)と呼ぼう、まさにイシュ(男)から取られたものだから》


 アダムはいつ目覚めてその女を見たのか? 
 『創世記』はアダムの眠りについて述べるばかりでその目覚めについては一行も記述してはいない。まるで禁断の果実を食べて《目が開ける》までは彼はずっと夢を見ていたかのように。


 この不可思議な書物『創世記』。
 既に人(アダム)の創造にしてからが重複し互いに微かに齟齬する三つの記述に分断されている。
 この女の創造はその三つの最後のものだ。

 既に天地創造の第六日目に人類は創造されている。
 エロヒームは、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべての、そう、実に《支配者》(イーシャーナ)としてアダムを創造した。このアダムはこのとき男性と女性に創造された。
 それは女(イシャー)の創造に遥かに先んずる。

 だがこの箇所にはイシュ/イシャーの語は用いられていない。男性はザハル、女性はネケヴァーとなっている。これは男と女というより寧ろ雄と雌という動物的なニュアンスのより強い語だ。
 また、ザハルと同綴の別の語ゼーヘルは記憶・記念・思い出を意味し、この名詞の元になった動詞ザーハルは発音もザハル(ザーハールという方がより正確だろう)に非常に近く、「記憶する」「思い出す」の意。ネケヴァーは《穴》、それも小さな穴を意味するネケヴから露骨に派生した語であり、女性生殖器から連想された言葉で、全く同じ綴りのニケバーは、地下道・トンネルを意味する。そこから埋葬されるという意味の動詞ニケバルにも関連する。
 だから《男と女に……》とさりげなく書かれているこの箇所を、一瞬、われわれが全てそこから出て来た大地の女神の暗い穴の記憶がふわりと横切っているのだ。


 『創世記』は語る――《エロヒームはアダムを自分の像に[かたどって]創造した、それをエロヒームの像に[かたどって]創造した。男性と女性に彼らを創造した》。


 ここで人類はただ《神の像》によって創造されたのであり、後に見るように土の塵から形づくられたものではなかった。

 ユダヤのカバリストたちは、神が二度もアダムを作ったというこの記述の矛盾を解決するために、最初のアダムを《創造界のアダム》と呼び、後のアダムを《形成界のアダム》として区別したが、それは聖書に用いられた《創造する》《形成する》という二つの動詞の違いに着目することによってなされた。
 最初の創造はベリアーと呼ばれ、ここで神は人間のイデア的な原型を作ったのだと考えられた。

 《自分の像に、エロヒームの像に》(ベツァルモー・ベツェレム・エロヒーム)という箇所に現れるツェレム(ЦLM)という語は、影や暗黒というやや陰りを帯びた意味を持つツェール(ЦL)の派生語で、「十字架につける・磔刑にする」(ЦLK)だの「火炙りにする」(ЦLH)だの物騒であると共に、意味深長な他の語と親戚関係にある。キリスト教における犠牲《磔刑crucifixion》の象徴である《十字架》はツェラーヴ(ЦLB)として、まさにこの神の影ツェールの影に覆われている。
 更に、全焼の生贄を捧げるという場合の《燔祭》はオラー(OLH)だが、この語も「火炙りにする」(ツァラーЦLH)に意味からもまたその頭文字の紛らわしいかたち(※脚注)からも深く結ばれている。
 物騒さついでに挙げるとツァラフという動詞は《狙撃》を意味する。
 またアダムの例の肋骨もツェラーといってツェールの影のもとにある。
 ツェレムと全く同綴の動詞にツィレムというのがあり、これは今日「写真を撮る・コピーする」という意味で用いられる。その《焼き付ける影》という連想のなかに、《燔祭》と《影》のイメージがダブる言葉だ。
 カバリストたちは、神の像(ツェレム)の語のもう一つの意味である《流し込む型/鋳型》のイメージを読み込んだ。
 神はこのとき己れの姿を今日の言葉でいえばコピーし、このコピーを引き続くイェツィラーの段階での人間の創造の鋳型に用いたと彼らは考えたのだ。
 次のアダムはだからコピーのコピーである。


 無論そこには明らかにプラトンの影響がある。ベリアーでイデアが、人間の理念的形象が創造され、イェツィラーでは神はこのイデア的な範型に基づいて、まさにギリシャの工匠デミウルゴスよろしく人間の物質的肉体を土の塵から捏ね上げて作ったという訳だ。
 それは手本を真似ての創造であり、明らかに最初の創造に比べて見劣りがする。


 グノーシス主義者たちは、そこにつけこんで、このデミウルゴスに落ちぶれた第二の神を不完全な神として軽蔑し、最初に人間を己れの《像》から作った神に憧れた。


【脚注】
※ここではヘブライ文字のアインをO、ツァダイをロシア文字で字形も発音もよく似たЦで転字しているが、原字のアインとツァダイは文字形がよく似ている。残念ながらここではヘブライ文字を記入しても思うように表示できないので、元原稿に多用されているヘブライ語の挿入箇所は転字表記に置き換えるか、思い切って削除している。ヘブライ表記のところだけイメージを使うという手もなくはないが、レイアウトを崩さないようにそれをやるのは困難であり、またいちいちやっていられないので、御容赦願いたい。