[承前]


【5】かつて、わたしは〈無〉を二つに区別 して、可能性としての〈無〉を〈夢〉、不可能性としての〈無〉を〈鬼〉と名づけたことがある。また、これとは別に不可能性に二つの貌をなお識別して、否定的な不可能性を〈鬼〉と呼び、肯定的な不可能性を〈 〉と呼んだ。

 いまここに〈花〉と呼ばれて呼び起こされるものは、この〈夢〉〈鬼〉〈神〉の様相性の三つの顔に顔を並べるものである。それは〈偶然性 〉にわたしがつけた贈り名に他ならない。そして、それは〈偶然性〉の形而上学者・九鬼周造の思想に受けたわたしの感銘をそのままシンボリックに言い表したものであり、それ自体が九鬼周造その人を黙示録的に象徴するその異名なのである。
 同様にして明かすならば、わたしは、〈夢〉というとき夢野久作を、〈鬼〉というとき埴谷雄高を、〈神〉というときシモーヌ・ヴェイユ(時にはレヴィナス)を強く想起しながら語っている。

 同時に〈花〉とは、別の系列として、アリストテレスと世阿弥を共に強く意識しつつ、〈風〉〈花〉〈実〉の三つのフェーズをくぐってわたしが展開しようと思っているアニマ論の第二フェーズとして重要な意味をもつものだ。「アニマ論」といってもユング心理学でいうアニマの問題とは一次的には関係ない。わたしが計画しているのはむしろアリストテレスの『デ・アニマ(魂について)』にあたるものであって、形而上学的生命論とでもいうべきものである。しかし、論の性格は全く異なるが、扱う主題はユング心理学に恐らく大きく重なっていく筈である。というのは、これは通常の意味での生命論ではなく、むしろ運命論であり、より厳密にいうと、〈運命〉と〈生命〉を繋ぐ〈命〉の意味を問い直すための哲学になるはずだからである。