Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-5 海月なす苦い海

[承前]

 

 あなたのお母さんは、とおい昔、まだ大学生だった頃、当時つきあっていた男子学生の子供を孕み、ひそかに中絶手術を受けていた。その後すぐその無責任な相手は彼女を捨ててしまう。嘆いた彼女は冬の海辺で睡眠薬を飲み、海月〔クラゲ〕だらけの冷たく陰気な潮に入って死のうとした。
 ちょうどそこを通り掛かり、死の海に帰ろうとしていた人魚姫を助けたのが後にあなたのお父さんになる人だった。

 

 

 その海辺は本当に海月だらけだったという。
 波間をユラユラと漂う半透明の薄気味のわるい生き物は、実際生き物というよりはそれじしんが霊魂じみたゼリーのお化けだ。
 半死半生の彼女は冷たい海のなかで、この奇妙な浮遊物体たちと一緒に波の揺籃に抱かれていた。
 そのとき、海月の仲間になりたいとぼんやり思っていたという。
 それは堕ろされ捨てられて海に流された数多くの《水母》ならぬ《水子》の魂たちで、彼女も自分が中絶した子と一緒に生まれる以前の原初の海に戻ってゆけると思っていた。
 死にたいというのとは少しばかり違っていたらしい。


 その海月なす漂える海はけれども結局彼女を受け入れなかった。
 大勢の海月たちと一緒に波打際に吐き捨てられた。
 海に這い戻る力もない足萎えの海月たちはやがてしぼんで空気の中に跡形もなく蒸発してゆき、本当に常世の国に帰ってしまうが、その死屍累々たるゼリーの墓場のなかでお父さんが発見した眠り姫にはまだ息があった。


 体にはあちこち海月に刺された痕がついていた。
 水子たちの意地悪な復讐の跡だった。


 この話をあなたは精神科医から聞き出したのだという。
 精神科医の方は、あなたのお父さんから聞き出していた。
 医者の話では、このとき海月と共に生死の境を漂いながら、結局刺されて死の海への帰還を拒まれた体験が、お母さんの心に辛くかなり後々まで疼きを残す深い深い傷となったのだという。
 彼女はそれを妊娠中絶の罪に対する厳しい罰であると受け取っていた。
 水に入るまでは自分が小さな命を《殺した》などとは思っていなかった。
 海月に刺された傷の痛みから、《罰》の観念が生まれ、それから《罪》の意識が生じた。
 これはたちの悪い倒錯論法だった。
 《罰》の痛みは《罪》の意識からの出口の試練で、終われば苛まれた心は許される。
 ところが彼女は《罰》から《罪》を作り上げてしまった。
 出口から入ってしまった訳だ。すると《罪》の迷路から彼女は出られなくなる。
 そこを迷ううちに《罪》は《夢》となり、いっとき彼女をファンタジー作家にしてはくれるが、慰めにはならないままに、やがてそれは《狂気》に至ってしまった。


 あなたは『昼子』というのは、その最初に中絶した子供のことだろうと言う。


 それはもう《実〔ミノル〕》でもぼくのことでもない。
 だから話のなかで女の子になっているんだ、とやや恨みがましそうに冷たく言った。


 母は何もかも忘れて、都合のよい忘却の海に行ってしまった。
 《昼子》とは言うまでもなく《水蛭子》のこと、得体のしれない海月の化け物だ。
 母は、名もないその胎児の亡霊に連れ去られてしまったのだ。
 ぼくを、死んだ兄の生まれ変わりだと信じてくれた訳ではない。


 あなたはやや蒼ざめて下唇を強く噛む。母の裏切りを許すことができないという風に、こわばった怒りの表情が、その能面のようにはりつめたあなたの美しい無表情から、白く薄い色の皮膚の底に微かに透けてみえる。


 母は忘れてしまった、とあなたは言う。
 何もかも忘れてしまったのだ。
 《実》のことも、ぼくのことも、彼女を助けた父のこともすっかり忘れてしまった。
 ぼくたちはみんな捨てられてしまったのだ。何という愚かしく恐ろしい狂気だろう!


 でもそう言ったときのあなたの方が娘には少し怖いと思えた。
 今も同じ。わたしも怖いと思う。


 あなたにはとても優しいところがある反面、どこかぞっとする程底恐ろしいところがある。
 まるで深い海の底の冷たい水に触れるよう。


 だが、娘もわたしも、寧ろそのあなたのうちに潜む冷厳で凶暴そうな、黒く巨大な殺意にも似た恐ろしさにこそ強く魅かれていた。
 それはあなたが寅年のせいなのだろうか、ときどきあなたが優美だが獰猛そうな白く気高い虎のように見えることがある。
 近寄るものを容赦なく殺してしまうようなあなたのその内に秘めた激しさがわたしたちは好きだった。


 あなたの美しさはきっとその尖耳畸型種〔ハーフエルフ〕やアンドロイドの人達とも見まがう器量の整いや肌のすべやかな美しさや幻想的なまでに中性的な容姿の高貴さだけから来るのではない。
 そういったものを内側から強く輝かせる、全くひとと違うアウラの光をあなたは持っている。
 きっとそれは内に秘めたその猛虎の本質にあるのだろう。


 あなたの《神》という名前に本当に相応しい神聖にして畏怖すべき威厳をたたえた、その強い獣の性にわたしは今でも憧れている。


 今までそんな人を見たことはなかった。わたしたちの兄の稔を除けば。