Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-4 消された復活

[承前]

 

 そうだ、あなたは確かにそこにいた。ベツレヘムの不思議な重なる星の奇蹟が、一度死んだあなたを蘇らせていた筈。あなたの母は、実〔ミノル〕を失ったので現実を失った。でも、実〔ミノル〕は本当はいたのだ。彼女の後ろにいつもいたのだ。実〔ミノル〕の『実』は『真実』の『実』でもある。それは、あなたの真実でもあった筈。

 どうして教えてあげなかったの? 
 お母さんだって待っていたでしょうに。どうして呼びかけられることだけを待ち、泣いている女に話しかけ、名乗りを上げずに放っておいたのだろう。
 あなたにはそれができた筈だ。

 イエスは、自分の空っぽの墓の前で恋人の遺体が隠されたと思って泣くマグダラのマリアに話しかけた。マリアには確かにその人が誰なのか分からなかった。園の番人に違いないと思い込んでいたのだ。どうしてか分かる? 両目が涙で一杯でまともに物が見えなかったからだ。でも、イエスは話しかけたのだ。名乗りを上げはしなかったけれど、彼女の名を呼んであげた。だから、マリアにはそれが愛しい人だと分かったのだ。

 確かにそのすぐ後で、イエスは縋りつくマリアを振り払った。

 《Noli me tangere(わたしに触るな)》、ああ、何と冷たい言葉だろう! 

 でも、マリアはイエスがそこに蘇っていることを見ただけで満足だったのよ。
 抱き締められなくとも良かった。彼女はきっと喜びに溢れて、あのひとが生き返ったとみんなに知らせに行ったのだ。
 その足取りはどんなにか軽やかであったことだろうに。

 あなたにもう少し奇蹟を行う勇気があったなら、ああ、あなたには簡単なことだった筈でしょう? 一言言ってあげるだけのこと、それだけで、苦しみの膜に塞がれた哀れなその女の目は開かれたことでしょうに。お母さんもそれを望んでいた筈、本当は実〔ミンル〕と呼びたかった。だって、それこそあなたの本当の名前、死んでまた生まれ変わってきた神の子に一番ふさわしい名前だったのだ。

 だから、あなたの名前を嫌って呼ばなかった。
 だから『昼子』を書いた。
 或いは、嫌ったから呼ばなかったのではなかったのではないだろうか。
 願いを叶えてくれた神への大きな感謝と畏敬の念から、その聖なる名を深く尊んで敢えて呼ぶまいと思ったのではないか。
 お母さんこそ、わが子が神であることを本当に健気に敬虔に信じていたのだ。
 嫌ってなどいなかった、とても深くあなたを愛していたのだ。
 気も狂わんばかりに。

 どうしてそれが分からなかった? あなたこそ、お母さんを、そして自分自身を裏切っていたのではないか。

 奇蹟を嫌い、ミノルを死んだままにしておきたかったのはあなた。
 あなたはそのことで本当にミノルを殺してしまった。
 まるで水瓶を荒々しく打ち砕くように。

 あなたは厳しすぎる――自分にも他人にも。そしてそのことが分かっていない。
 あなたが、お母さんを裁いて、狂気に追いやってしまったのだ。

 恐ろしい神様、どうして信じることが罪なのだ? わたしには分からない。

 冷酷な現実を自分の回りに作り出し、その重い氷の下に全てを圧し潰そうとして、一体あなたは何を求めているのだ。
 あなたの創造は水瓶の破壊。あるがままの美しい世界を殺すために、あなたは雹と氷を、恐るべき冬を創造する。

 でも、あなたが神であってもいいではないか。あなたが実であってもいいではないか。狭隘な現実という幻想を無理やり作って、自分は神ではない、自分は実ではないと言い張っているその姿そのもののなかに既に、気高い創造神の素性は隠しようもなく現れてしまっている。

 自分に嘘をつかないで。
 あなたが神様であるなら、尚更のこと。
 神様が神様はいないと言ったら、人間は何を信じたらいい? 
 またもし、神様が神様がいないことを証明しようとして自分を殺し、無に変えてしまったら、この世界はどうなってしまうのだろう。ばらばらに解けて、消えてなくなってしまうのではないか。

 どうか気付いてほしい。あなたが神様ではないという証拠なんてどこにもないのよ。もしそうであるとしたら、今のあなたがどんなに恐ろしいことをしていることになるか、一度でもそんな風に考えてみてくれたことはあるのかしら。

 でも、あなたはそれを認めない。あなたが信じたのはもっと別の苦い話。