Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-2 裂かれた家族

[承前]

 

 あなたは娘の本当の名前が《有理〔ユリ〕》であることを知った。
 彼女は画家と音楽家の娘で三人兄妹の末っ子だった。
 多くの身の上は物語らなかったが、物心ついたときには、兄が盲人で姉の真理が唖者であったことを告げた。

 姉の真理はあなたと同い歳で、不思議にも同じ誕生日だったこともそのとき打ち明けた。そのことが何より彼女に深い印象を与えていた。
 その姉は口が利けない上に、すっかり白髪だった。白子〔アルビノ〕だった訳ではない。 彼女が生まれて間もない頃、体が回復するとすぐ母親は演奏旅行に出掛けてしまった。未熟児だった彼女はまだ病院のカプセルのなかにいた。
 あるとき、父は兄と姉を連れて当時の銀座に買い物に出掛けた。電車に乗っていたときだった。あの恐ろしい地震が東京を襲った。

 列車は横転し、崩れる高架線から下の道路に転落した。
 多くの死傷者を出した恐ろしい事故で、三人の命が助かっただけでも奇蹟としかいいようがない。
 同じ車輛に乗り合わせていた乗客の殆どが死んだという。
 それでも、全く無傷という訳にはいかなかった。
 二人の子供を庇おうとした父親は右の眼球を硝子の破片で損傷して失明、子供は体こそ無傷だったが、心に二度と直らぬ深い傷を負った。
 事故のショック、何より父親の片目を抉った硝子と夥しく流れた血が、姉の髪の色と声とを奪い去ってしまった。
 髪は二度と黒く生え変わることはなかったと娘はあなたに語った。

 兄の目が見えなくなったのも、その事故のせいだったのかとあなたは尋ねる。

 いいえ、兄は全く無傷だった。

 娘はあらぬ方を睨みながら、顔を背け、不機嫌に暗くなった声で言う。

 兄さんは、恐ろしい人……。
 兄の目はとうの昔に見えなくなっていた。
 信じられるかしら、兄には悪魔の力が備わっていたのよ。
 だから、あんな事故に遭っても擦り傷ひとつ負わなかった。
 その目が暗く盲いることになったのも、その恐ろしい力を弄んだ結果だった。
 まだ言葉も碌に話せぬ小さな子供だった癖に、兄は鏡のなかからきっと悪魔を呼び出そうとしたのだ。
 悪魔が出てきたとき、鏡は細かな塵となって割れ、その呪われた塵を両目に浴びたために、兄の角膜はボロボロになってしまったのだ。

 それからも、兄が泣いたり、怒ったりする度に、家のなかのものが壊れたり、炎を上げたりした。
 宙に玩具を漂わせてグルグル回す無気味な遊びをしてはしゃいでいた。

 元々無気味なものの好きな変わり者の父は、そんな兄を却って溺愛したが、母はそんな怪物が我が子に産まれたことを嘆き、兄にすっかり脅え、またひどく嫌っていた。
 研究所の者だという変な医者のような連中がいつも家に訪ねてきて、兄と姉とわたしが――それでも小さい頃には仲良しだったから――一緒に奇妙な遊びをするのを観察し、父と胡散臭くて気味の悪い話をするのも母の悩みの種だった。

 父とその人たちは、時々兄を何処かに連れていって、何か恐ろしげな如何わしい実験をしていた。ずっとそうだった。
 姉が死んでしまった後も、そしてわたしが母に連れられてその家を出た後も、父は兄を異常に愛し、相変わらず異常なことにかまけていた。

 あの恐ろしい地震も、きっとあの兄が大きな悪魔を呼び出そうとしたからだ。
 あの人はとても恐ろしい人だから。

 それはきっと念動力〔サイコキネシス〕というものだと思う、とあなたは言った。
 俄かには信じがたい話だけれど、時々そんな超能力を生まれながらに持っている人がいるという。
 よくTVでもやっているスプーン曲げの物凄く発達したものだ。
 その程度のものだったら、別に 珍しいものじゃない。尖耳畸形種〔ハーフエルフ〕の人たちのなかには色々小さな力をもった者が特に多いという。
 ぼくの大学の友人の女の子にも尖耳畸形種の人がいて、よくスプーンをぐにゃぐにゃ曲げておかしなオブジェを拵えて遊んでいる。タロット占いがよく当たるので新銀座でもちょっと評判の娘だ。勘がいいのかカードの裏側を透視できるのか知らないが、余りに強すぎるので、誰も彼女とトランプをやりたがらない。
 でも、そんな力はとても小さなもので、大地震を起こすような規模のものは考えられない。ありえないことだ。

  あれが念動力というものだということはわたしもよく知っている、と娘が言う。
 母は兄の名前に『念』などという字が入っているから、あんなことになってしまったのだと自分が名付けてしまったその名のことをひどく悔やんでいたのだから。

 あなたは一瞬苦しそうに顔を僵〔こわば〕らせる。
 それから、ぼくの名も母はとても嫌がっていたのだと辛そうに告げた。

 娘には不思議だ。あなたの名前はとても素晴らしく、高貴で美しいものに思えていた。本当に神々しい、それに華やぎというものがある。

 

[続き]