Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-1 甦るオフィーリア

 

[承前]

 

hutari

 女の部屋には、大きなラファエル前派の絵画のポスターが飾ってあった。
 小川に落ち、野の花を流れる澄んだ水のおもてに撒き散らし、歌いながら狂い溺れてゆくオフィーリアの姿。19世紀末ヴィクトリア女王時代の英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレーの有名な作品だ。
 父親が画家だという彼女自身が画学生で、部屋では時々ヌードモデルをさせられた。
 時には彼女の服を着せられ、化粧をし、花束を持ち、スカートを履いて、女に扮した姿を撮影されたり、デッサンに写されたりしていた。
 女は、女装した姿を大層気に入り、ほれぼれとこちらを眺めながら、綺麗ね、本当に綺麗ねぇと言いながら、機嫌良さそうにコンテを走らせる。
 そういう彼女自身が人形のように綺麗な顔をしていた。


 女に成り済ましたまま、よく二人で外に出掛けた。街に出ると、彼女は非常に無邪気にはしゃいだ。普段は余り笑わない、少し陰気な娘だったが、人が変わったように生き生きする。
 まるで夢のようだといい、歌を歌い、踊るように回りを歩き、抱きついてキスをする。
 周囲から変な目で見られようとお構いなしだ。
 馬鹿な男たちが騙されて、お茶を誘いにくる。笑いながら二人で逃げる。大勢のいるメトロのホームで抱き合う。偶然知り合いに見られるかもしれないというスリル。
 レスビアンだという女性が話しかけてきて、余りの明けっ広げさに感心したと言う。
 事実を話して三人で大笑いする。


 時には姉妹に間違えられることもあった。
 あるときのこと、鏡面仕立のビルのウィンドウを覗いて、二人の顔を並べ比べてみると、成程、化粧の加減なのだろうか、彼女に面影の似たもうひとりの見知らぬ女の顔があってドキリとする。
 メイクはいつも彼女が施していたから、器用な画学生の離れ技で、他人の顔の上に巧みに自分の自画像を描いてみせていたのかもしれない。
 そう言うと、女は、その突飛な意見をとても面白がって笑い、それから真顔に戻って低く声を落とした。


 いいえ、はじめてみたときから、あなたはわたしにとてもよく似ていると思っていた。
 そして、わたしよりも、わたしの姉に面影が似ていると思ったので、好きになった。
 わたしの綺麗なひと。きっと、姉が生きていたらあなたそっくりだったでしょうに。
 わたしは姉さんを愛しているの。ずっとずっと小さいときから、姉さんを愛してきたの。
 ああ、お姉さん……。女は顔を覆い、こちらの胸に体を預けてさめざめと涙を流していた。


  *  *  *


 わたしは今から《わたし》と言うことにしよう。
 わたしは真理、わたしは今、あなたの物語を書こうとしている。
 どこから書いているかは問わないでほしい。
 わたしはあなたにあなたとこれから呼びかけることにしたい。あなたにわたしは話しかけたい。
 でも、あなたにわたしの声は届かないだろう。わたしは生きている。あなたのなかに生きている。
 わたしはあなたと共にいる。あなたに分かってほしい。
 わたしがあなたを愛しているということを。


 あなたがそのとき抱いてくれたその娘はまだそのことを知らなかった。
 わたしはその娘をわたしとは呼ばない。
 その娘が死んだとき、わたしは生まれたのだ。


 わたしはあなたを愛している。もう、姉に囚われてはいない。
 その娘を脱ぎ捨てたとき、わたしは姉の呪縛からも解放された。
 わたしは自分が姉となったことを悟った。
 わたしの姉、真理の名前がいま本当にわたしの名前になったのだ。


 そして、わたしはあなたの花嫁となったのだ。
 わたしは真理、だがもう、黒崎真理ではない、わたしの名前は有栖川真理。


 わたし、真理は、その娘のなかにいて、そのときからずっとあなたを愛していた。
 或いは、寧ろわたしはあなたのなかにずっとはじめからいて、その娘を通してあなたに愛を捧げ続けていたのかもしれない。


 いずれにせよ、その娘の死がきっかけとなり、わたしは目覚めたのだ。
 ここに――あなたの心の底に。そこでわたしはわたしになったのだ。 


 ああ、あなた、わたしの哀れな神様。
 あなたに分かってほしい、あなたは知らないだけだということを。わたしがあなたを愛しているということを。そして、あなたもまたわたしを愛しているのだということを。


 あなたに教えたい、どんなにあなたが深くこのわたしを愛してくれているのかを。
 あなたとは愛そのものなのだ。それなのにあなたにはそれが分からないのだ。
 あなたを救ってあげたい。その恐ろしい大きな誤解から。わたしにそれができるものならば。


 あなたの心を、あなたから隔てる、この分厚くどす黒い氷層の岩盤をどうすれば溶かすことができるのだろう。


 わたしの背後から、誰かが見ている。
 大きな闇のなかに座ってその姿も見定められない、何か恐ろしいものがいる。
 わたしにはあれが分からない。重々しい視線でこちらを見ている。
 脅すようでも襲い掛かってくるわけでもなさそうだが、わたしはとてもそれが怖い。
 あんな得体の知れないものが、どうしてあなたのなかに棲み着いているのだろう。


 あれもまたあなたが作り出したものなのだろうか。
 それともまたあれこそがあなたを操っているものなのだろうか。
 あなたはあれを知っているのだろうか。あれは本当にいるものなのだろうか。
 ここには、あなたとわたしの他に、まだ誰か他の者が隠れているというのだろうか。


 まあ、いい。いずれわたしにも分かるときがくるだろうから。
 眺めるままに眺めさせておこう。
 わたしはわたしのすることを続けよう。