Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-7 不幸な意識

[承前]

 

 ――何故? きみはその通り、とても鋭くて頭がいい。家だってぼくなんかよりずっと裕福じゃないか。それにお父さんだって学者だろう。もし仮にそうでなくたって、きみなら奨学金だって簡単に取れる。バイトの必要だってないだろう。なろうとさえ思えばたやすいことだ。きみがなれないというなら、誰もなれないよ。例えば、ぼくなんかより……。

 

 おまえなどに何が分かる。
 自由の時が、残りの命数が、もう後僅かしか残っていない者のこの恨みに満ちた気持ちが。
 誰もが自由だとおまえは思っているのか。この俺を羨むというのか。
 俺の本当の身分をおまえは知らない。
 替われるものであれば、誰でもいい、替わって欲しい。
 やがて俺の将来は、永久に愚劣な輩と付き合う不自由で空虚な灰色の多忙さに閉ざされてしまうのだ。おまえは、下らぬ奴の気紛れで、未来を摘まれ、奴隷に売られる者の心地を知らない。


 だがおまえはきっと俺が奴隷になっているのを見ても、俺が奴隷だとは決して想像できないだろう。俺のことを寧ろ主人であると思って益々羨望するだけだろう。或いはナチの頭目と思って憎悪攻撃するだろうか。

 糞、本当になれるもんならヒトラーにでもなって、思想表現の大弾圧や美術品の略奪破壊やホロコーストでもしてやりたいところだ。
 きっといい憂さ晴らしになるだろう。
 チッ、あのヒトラーだって望みどおりにちっぽけな画家にさえなれていれば、あんな悪魔みたいな独裁者になりはしなかっただろうに。

 ミダス王の孤独を誰が理解してくれよう。フリードリヒ大王でなければ誰が。
 金、金、金、何もかもが金だ。だが王様の耳は驢馬なのだ。それが俺の秘密だ。

 暗い怨嗟が悶々と沸き起こるのを押さえながら、下脣を噛み、再び断ち切るように、ソクラテス罵倒の演説に断ち切られた言葉の首を継ぎ足す。

 ――アリストパネスがソクラテスを軽蔑したのは当然だ。
 賢者は瞑想し、沈黙する。
 或いは、一見捉み処のない不可思議で神秘的な言葉を滔々とたれ流すものだ。
 まさに風の吹くままの言葉だよ。それこそが知恵の自然〔フュシス〕というものだ。
 しかし、哲学者はこの賢者に悪い評判を立てるためにおしゃべりに明け暮れ、賢者が好きなことを好きなように語る権利、ふん、《聞く耳あるものは聞くがいい》という明けっ広げなあの態度の権利を制限するために理性の法廷を捏造した。
 その最たる者があのカント、《為すべきことは為し得る》という自由意志を扼殺する暴力の定言命令を人類に押し付けたあの制限好きのカントだよ。
 そうやって、人間は義務のロボットにされるのだ。
 しかも自由の反対物を『自由』であると瞞着されてね。
 ふん、カントはもうひとつひどい言葉を残している。
 《汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動せよ》だ。
 ご立派な言葉だが、つまりは、自分の全ての行為を一々法律に照らし合わせ、法の奴隷になることを自由と言っているだけだ。
 ソクラテスは悪法でも法には従わねばならないと言って、愚者の法廷の言うがままに毒杯を仰いだ。
 おお、何と馬鹿げたことだろう! 
 法廷など呪われるがいい、哲学者の正義なんかも同様だ。
 ああ、ぼくはこういった奴ら全てに対して問いたいね――《何故》と。
 しかしこの《何故》は、《わたし》と《あなた》を同じにするような理由をこの《何故》の問いの反面に期待しているのではない。
 《あなた》が答えるなら、それは《あなた》がその何故に囚われていることを自白するだけの話だ。
 何故《何故ならば~だから》の言い訳なしに《あなた》は生きられないのか? 
 そのことの理由をこそその胸によく問うてみるがいいのだ。
 そこには、《あなた》の口先から出た出任せの全てを暴き立てる事実無根があるに過ぎない。
 《何故なら》つまり《だから》とは既に他者へと許しを乞うことだ。
 きみたち哲学者はよく主体的選択などという口幅ったい台詞を口にするけど、どうして《何故》に呪縛された奴にそんなことが言えるのか不思議だ。
 ふん、《何故ならば~だから》、《何故ならば、悪法でも法だから》、いちいち言い訳しながら主体的に選択したソクラテスの毒杯など糞喰らえだ。
 毒杯を有り難い知恵の妙薬として処方する似非薬剤師、それがきさまら哲学者、醜いソクラテスの息子どもだ。
 あっは、まさに《パルマケイアはその戯れによって、ひとつの処女の純潔とひとつの損なわれていない内部とを死に追い遣った》のさ! 
 プラトンはその下らぬ師ソクラテスの屈辱的な死を理想化することで、結局、死を賛美した。
 当然だ。死とは国家への、権力への、つまりぼくらの食卓のワイングラスに毒を垂らしこむ巨大な悪意への無力な人間の同意、自由の放棄、服従の受諾を意味するからだ。
 ソクラテスの自殺は自由意志の結果ではない。
 巨大な権力が押し付けた毒杯を、主体的選択の自己欺瞞的仕草で負け惜しみ的に仰いでみせたのに過ぎない。

  森は蒼ざめ、体を震わせた。
 だが、口はまだ容赦を知らず、黒々とした怒りの言葉を溢れ出させて止めどもなかった。
 一体何を完膚なきまでに叩きのめしたかったのだろう。
 怒りは出任せに暴れ狂い、森を呪うのか、それともソクラテスを、また哲学を呪うのか、女の自殺を呪っているのか、それとも自分の境遇を呪うものなのか、もう分からなかった。
 ただ滾々と沸き出してくる凶暴な感情に任せ、暴れられるだけ暴れたかった。
 自由に動くものがたとえ小さな口のなかにのたくり、何一つ現実には焼き尽くすことのできない無力な舌の炎だけであったとしても。

 ――《何故ならば~だから》、それは人の顔色を窺うこと、いつ他人から糾弾されはしまいかと予め身構えていることだ。
 そんな用意の良さはどうしてなのか。不自然ではないか。
 哲学者どもの良心の本性は実は良心ではなく疚しさなのだ。
 ぼくは奴らに言ってやりたい。ダサいからやめてくんない!と。
 そして言う――ぼくはぼくのしたいようにすると。
 それが端的に自由なのだ。
 乙に澄ました哲学者の理想主義などに自由を語る資格などあるものか! 
 おお、魔法使いのクロウリーの言葉で、カントの寝言などひっくり返すべきだ。
 《汝の欲する処を為せ、それが法の全てとなるだろう》。
 クロウリーはもっといいことを言っている。

 《すべての人は、あるがままの自分でいるという破棄不能な権利を有する》
 《この自分の設けた基準に人は皆従うべきだなどと主張すれば、他人のみならず自分をも侮辱することになる。というのも、自他の別を問わず、人間とは必然から生まれるものだからである》
 《すべての人は、他人の意志を侵害することなど恐れずに、自分自身の意志を成就する権利を有する。則〔のり〕を越えずに生きている人に干渉する者がいれば、落ち度があるのは他人の方だからである》!


 最後の言葉を言ったときに、強い怒りのために咽びそうになった。
 だが森はこちらの感情の異変には鈍感だった。彼は言った。


 ――クロウリーだなんて……。恩田ばかりか、きみまでもがそんな神秘主義者だとは知らなかった。

 無論、神秘主義者ではなかった。魔術を信じるだけの豊かな心とて持ち合わせてはいない。

 昔、まだ幸せだったころは、大宇宙と自分とが一体になったような不思議な感覚に感動することもあった。
 哲学などに興味を覚えたのも、元を質せば、その感覚が、ウパニシャッド哲学にいう《梵我一如》と同じだと思ったからだ。
 そのときにはまだ、自分には何でもできるのだという麗しい陶酔があった。
 世界を救う新しい釈迦にもなれると思っていたし、また殊勝にもそうなりたいとさえ本気で考えていた。本当に力に満ちていたのに、その神秘の澄み切った泉はもう枯れ、哲学ではないもの、もっと卑俗なものからひどい毒を投げこまれてすっかり濁り、汚されてしまった。

 クロウリーの別の言葉が、実は胸に突き刺さって離れない。
 《人間が自らを、〈宇宙〉から離脱した存在ないしは〈宇宙〉に対抗する存在として意識することは、〈宇宙〉の流転を伝導する上での障害となる。そのような意識は人間を孤立させる。》

 すでに自分はその〈宇宙〉との幸福な繋がりを失ってしまった。墜ちた星だ。
 そんな者に魔術など使える訳がないだろう。自分が救われるなどともう信じる力すら残っていない、とうの昔に。

 だがもしも、魔術的な法則がこの宇宙に本当にあるのならば、自分は徹底的に不幸になり、やがて全宇宙の流転を妨げる巨大な癌のような障害物となって、すべてをこの墜ちた星の上に崩れ落ちさせてやる。
 この絶望の星を、やがて大宇宙をそのなかに巻き込み、重力崩壊させる、そんな恐怖のブラックホールに変えてしまいたい。

 それが自分の最後の魔術、黒魔術のブラックホールとなること、それこそ頭上で天理を曲げられた男の最後にしがみつく愚かしい、本当に愚かしい頑迷な信仰になるだろう。
 さもなければこのどうしようもなく肥大してしまった自我を何処に捨て去ることができるというのだ。


クロウリーからの引用出典元:
アレイスター・クロウリー『魔術-理論と実践 上』島弘之 植松靖夫 江口之隆共訳(国書刊行会 世界魔法大全 2b 一九八三)