Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-5 パイドロスの罠

 

[承前]

 

 ――《言ってください、ソクラテス、ボレアスがオレイテュイアを掠っていったと伝えられているのは、イーリッソス川のほとりのどこかこの辺りからではなかったでしょうか》

 ――《そうだ、そう伝えられている》

 ――《では、比処からではなかったでしょうか。とにかく、この小流れはやさしく、清く、透き通っていて、乙女たちにとってこのほとりで戯れるのにふさわしくみえます》 ――そこでソクラテスはもう少し先だという。そこはアグラの神殿の方に渡る手前で、風の神ボレアスの祭壇があるからだ、と。アグラ(Αγρα)とは狩猟女神アルテミスの異名アグライアに由来する。後に悪魔の名になった。綴りの《ρ》と《λ》を入れ替えると悪魔祓いの呪文AGLAになる。ヘブライ語で《汝、厳しく永遠なる主よ》を意味する語《アテー・ギボール・レ=オラム・アドナイ》のノタリコンだ……。

 ――恩田は元気か?
 ふと思い出して森は尋ねた。

 ――まあ、相変わらずだよ。北見は相変わらずいつも元気だ。

 ――ああ、彼女の葬式で会ったよ。

 ――えっ?

 これには少し驚いた。北見霊生〔ヨシオ〕には殆ど毎日のように会っている。
 あの女と北見との間に繋がりがあったなどと考えてみたこともなかった。

 ――ふん、やっぱり知らなかったのか。俺もきみのことは北見にも言わなかったからな。北見と彼女は親類なんだ。血は繋がってないらしいし、殆ど会ったこともないと言っていたがね。フォボスとダイモスに男女別々になってるが、同じギムナジウムの同窓生だったとも話していた。何でも、昔北見の兄さんが変な死因で亡くなったときに、その葬式で会って話をしたことがあるんだそうだ。そのとき、ちょうど彼女の方の兄さんも行方をくらまして、両家とも大変だったらしい。警察にも調べられたらしいな。その……どうも彼女のあの問題の兄さんが――どうせきみも聞いてるんだろう?――、北見の兄貴の死に関係しているんじゃないかって。北見は彼女の兄さんもそのとき一緒に死んだんじゃないかと思っている。兄さん同士はどうも親友だったらしい。北見は北見の兄貴が死んだときその場に居合わせていたんだ。変な処で死んだんだよ。長距離電話ボックスの中だったんだって。

 ――電話ボックス?

 ――北見の兄貴は、そのとき彼女の兄貴と電話で話していたところだった、と北見は言うんだ。その電話というのが、ネオ=バビロンからだったというんだ。

 ――月の?

 ――警察も一応調べてくれたらしいがね、信用してもらえなかったそうだ。渡航者リストにそれらしい人物の記録はなかったし、それに、その当日の朝、彼女の兄貴は江戸にいたというんだから、無茶苦茶な話だよ。テレポートじゃあるまいし、いくらなんでもそんなことありえないだろ。

 ――……妙な話だな。

 ――ところで、浦野はどうしてる? 最近、見かけないが……。きみ、昔よく一緒にいたよな。

 ――浦野は……その、入院したよ。

 ――入院? ああ、そういや、生っちろいひ弱そうな奴だったが――悪いのか?

 ――あいつの病気は体じゃない。心を病んだんだ。

 ――きみも最近あんまり授業に来てないな。テストのときだけだろ。先生方、心配してたぞ。卒論指導の教官の処にも顔を余り出さないそうじゃないか。病気でもしてたのか?

 ――別に……部室には油を売りによく出掛ける。

 ――おいおい、そんなんでいいのかい? こんなこと、ぼくが心配してやるのも変だが、いくらうちの大学が卒論なしでも出してくれるったって、大学院に進むんなら、卒論は重視されるんだぜ。

 ――そうかい……それは全く気付かなかったよ。ソクラテス。

 森はふと眉を上げ、それから微かに笑った。
 ――これはいらぬお節介をしたようだね。パイドロス。でも今の話は、犬にかけて本当だよ。

 ――その箇所にはラダマンチュスの誓いはない。

 ――ああ……《ヘルメスにかけて》だったかな。

 ――パイドロスはそのとき、こう言ったんだよ。《全く気付いていませんでした。では、ゼウスにかけて言ってください、ソクラテス、あなたはこの物語りを真実だと信じていらっしゃいますか》さあ、オレイテュイアはどこからどのようにして誰に攫われたのか、ソクラテスはどのような見解を示しているだろう?

 森は下脣を噛みしめた。こちらの挑戦の意図を受け取ったようだ。
 ――いいだろう、パイドロス、きみが上衣の下の左手に何を持っているのか知らないが、さらば導き給え、声澄めるミューズよ、《これをここなるいと優れし男がわれに語るべく強いるなれば》だ。
 ソクラテスはかく語った。
 《いや、賢人たちがするように、もしわたしが信じないとすれば、それは理屈に合わない事ではないことになるだろう。そして、賢こぶって「オレイテュイアがパルマケイアと遊んでいたときに、ボレアスという北風が彼女を近くの岩の下に突き落とした。そして、このようにして彼女は果てたので、ボレアスの誘拐に会ったのだと言われているのだ」と言うことができよう――あるいはアレスの丘(――つまりアレオパゴスだ)から突き落としたと言うこともできよう。というのは掠われたのはあそこからであってここからではないという話も語られているからだ。が、わたしは、パイドロス、このような説明を特に立派だとは思うけれども、これはたいへんすぐれた、労をいとわぬ、そしてあまり幸福ではない人のすることであると思う。それは外でもない、そのひとはその後にヒッポケンタウルスの姿を匡正しなければならないし、そしてキマイラの姿も。そしてこのようなゴルゴンやペガソスたちの群やその他おびただしい数の、何か妖怪の性質の多数のものが流れよってくるのだ。もし誰かがこれらのものを信じないで、その一つ一つをもっともらしいものに持ってゆこうとするならば、何か雅致のない知恵を用いるために、多くの暇が必要になるだろう。が、わたしには全然これらのことに関わる暇はない。して、その理由は、君、次の通りだ。わたしはまだ、デルポイの銘が言っているような、わたし自身を知ることができないでいる。まだこの事を知らないでいながら、他のことを探究することは確かにわたしには滑稽だと思われるからだ》……。

 森はそこで不意に声を落とし、途切らせた。そして、暗い声で言った。
 ――分かったよ、パイドロス。それがきみの言いたいことか。


『パイドロス』からの引用出典元:
 プラトン『パイドロス』副島民雄訳 (角川書店 『プラトン全集3』一九七三)