Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-4 メメント・モリ

 

[承前]

 

 ――ジャック・デリダ、『プラトンのパルマケイア』からの引用だ。パルマケイアとは毒をも薬をも意味する。中世の錬金術師は毒物の水銀〔メルクリウス〕を智慧〔サピエンティア〕の探求に用い、中国の錬丹道も、同じ水銀を使った《丹》を不老不死の薬として処方し、信じた多くの皇帝を死なしめる結果に終わった。薬は病を癒すものだが、人を殺す毒にもなる……。

 ――何が言いたいんだ。

 ――北風に攫われた王女の物語だ。暁の女神エーオスと星の神アストライオスの間に北風の神ボレアスは生まれた。アテナイ王エレクテウスの娘の一人オレイテュイアは、アテナイの郊外、イーリッソスの河畔でパルマケイアという娘と遊び戯れていたとき、ボレアスに見初められる。北風は王女を攫ってゆき、二人の間にカライスとゼテスが生まれた。この子供たちは、ボレアダイと呼ばれ、背中に翼の生えた神で、アルゴナウテスの遠征に加わり、ハルピュイアと戦った。ハルピュイアは『掠め取る女』――つまり、『誘拐魔〔ひとさらい〕』を意味するギリシャの風の精。墓場で彼女たちに供え物をする風習があった。死霊が化けてなったのだともいう、腐った屍肉を啄むハゲワシのような、だが頭は女の怪鳥だよ。英語でいうところのハーピーだ。復讐の女神エリュニースの婢女で、食物を臭い排泄物で汚す習性があったともいう。その中の一匹、『素早く飛ぶ女』を意味するオキュペテを捕まえて帰る途中、ボレアダイの兄弟は疲労のあまり力尽きて、ストロパデスの島々に墜ちて死んだ。またはテノス島で彼らを恨んだヘラクレスに殺されたともいう。ヘラクレスはテノスに彼らのための石碑を建てたが、その石碑のひとつは北風が吹くたびに震えおののいていたという。

 森は化け物を見るような目でこちらを眺めていた。だが、構わず続けた。

 ――ボレアダイの墜落したストロパデスは、やがてハルピュイアの棲栖になった。ヴェルギリウスの『アエネイス』に、この島に棲むケライノというハルピュイアが出てくる。ケライノとは『暗黒の女』を意味する。ケライノは、トロイアの残党で後にローマの礎を築く英雄アエネイスの一行に、不吉な予言をする。彼らはやがて飢え、テーブルを食べるまでは新しい都市を建設することはできない、とね。やがて彼らはティベルの河口でパンを皿の代わりにして食事をし、この狡智い策略めいたやり口によってケライノの予言は意外な成就を見る。こうして、その土地にやがてローマとなるラティニウムの街が築かれることになった……。ひっくり返されたマナの逸話、まるで『出エジプト記』のパロディのような話だよ。やがてイェルサレムを引き継ぐ都市はこうしたペテンによって誕生したのさ。

 ――人を煙に巻くのはやめてくれ。

 森は不機嫌をあらわにした。当然のことだった。やや置いて、俯きながら、彼に言った。

 ――プラトンの『パイドロス』の冒頭だよ……。読んだことぐらい、あるだろう。

 森はプラトニストを自称していた。プラトンを崇拝する古典的で模範的な哲学青年。それこそ、女が、内心、森を疎み、そしてやや蔑み嫌っていた理由の一つでもあった。
 その高尚な理想主義に目が眩んで、森は女を分かろうとしなかった。だが理解している積もりになっていた。
 彼らは交際しており、表向きは恋人同士。
 だが、それを信じていたのは森だけで、女の心はとうに冷めていた。
 森はそれを知らず、殆ど既に夫となった気分で安心しきっていた。
 女に出会ったとき、すぐにそれが分かった。
 女をわざわざ連れて来て、こちらに自慢げに紹介したのは哀れにも森の方だった。

 それから間もなくして、女から電話があった。
 わざわざ番号を調べて、会って欲しいと言う。
 女は森をもう愛していないと告白した。それが馴れ初めだった。
 密会を重ねたが、やがて女と別れたのは森に疚しかったからではない。
 女は、あなたが好きだと言い、森とはもう別れたいと言っていたが、そのこちらを見る眸に、愛を信じる気持ちになれなかった。

 誰を本当に彼女は愛していたのか。
 時折こちらを素通りして不思議な夢へとするりと突き抜けてゆく、まるで捉え処のないあの女は、本当は誰のものだったのだろう。
 彼女は誰も愛していなかった。
 好きだとは言ってくれたが、愛しているのかと尋ねると、いつもそれは分からないという寂しい返事が、虚ろな谺のように戻されてくるだけだったのだ。

 あの女について、今更何を語るべきことがあるというのだ。
 何故われわれが出会い、話さなければならないのだ。
 苛立ちを覚えていた。
 どうしてわざわざまるで《思い出せ》というかのように、見窄らしく陰気な襤褸頭巾を被った死神みたいななりをして、この男はやってきたのだろう。
 ヨーロッパ中世の抹香臭い道徳格言《memento mori》を掲げるように。

 メメント・モリ――死を憶えよ。森の名アキラは、確か《覚》と書いた筈。
 ラテン語には詳しくないが、《mori》は《死ぬ》を意味する動詞《morior 》の不定形。
 普通は《汝は死するということを覚悟せよ》という意味にとられるけれども、誰が死ぬのかは実ははっきりしていない。女なのだとは限らない。
 不定形(an infinitive)――つまり無限形の死。
 死は無限であり、その無限からは誰も逃れられない。
 人とはいずれ皆死ぬものなのだ。

 だが女はそれを覚えていなかった。
 死ぬことは行為に似ながら行為ではない。運命なのだ。

 誰が運命を選び取れるというのだろう。
 たとえ自殺による死だからといっても、死の運命が彼女の意志にたまたま同意しなかったら、それは未遂に終わった筈だ。
 自殺とは死の運命・定められた寿命への反抗的闘争ではない。
 自殺とは死の受容であり、人は皆死ぬということへの肯いを、許諾〔ウイ〕を言うことに過ぎない。
 その唇に死が愛の接吻〔くちづけ〕をし、風のように彼女を攫い、連れ去っていっただけのこと。

 オレイテュイアは幸せであったかもしれないのに、何故今、その墓を暴くような真似をするのだ。
 風の仕業について、何故置き去りにされただけのわれわれがここで無益な議論をしなければならないのか。
 われわれも寧ろ静かにボレアスが迎えにくる遥かな時を思い、自らの死の取り分を黙って待つだけでどうしていけないのだ。

 森がひどく憎らしかった。
 自分の真っ白な服に跳ねついた小さな泥の汚点〔シミ〕を見るように、女が森を嫌った以上に、ごしごし洗い取って、その場から森を消し去ってしまいたいという程の激しい嫌悪で胸がむかついていた。
 だが、口からすらすらと出てくる声は、まるで他人の話を脇から聞くように空々しく、感情も表情も消えうせた白い仮面の呟きのように響いた。
 自分が一体何を言っているかも、よく分かっていなかった。

 ちょうどそこは闇市の古書店で、手近に件の論文の入った薄汚れた邦訳書が見えた。
 書架から抜き取り、森にその箇所を朗読して聞かせる。

 ――《……言い伝えでは、ボレアスがオレイテュイアをさらって行ったと言われていますが、あれはこのあたりではないでしょうか、とパイドロスはたずねる。この岸辺、この水の流れの澄み切ったきよらかさは、乙女たちを快く迎えたに違いありません。それどころか、何か魔力のように彼女たちを惹き寄せ、たわむれるように仕向けたに相違ありません、と。するとソクラテスは、茶化し加減に、ソポイ〔sophoi(学者たち)〕の合理主義的・自然主義的スタイルでその神話について博識ぶった説明をしてみせる……。》

 ――その箇所ならぼくもよく覚えているよ。

 森は昔を懐かしむようにその険のあった双眸を少し穏やかに細めた。
 曾て机を並べ合う仲であったとき、その対話篇を二人で役柄を取り替えながら朗読して古代の哲人に思いを馳せたこともあった。
 そのときはまだ、二人の仲を無言の苦いこの闇へと引き裂いたあの運命の女はまだ影すらもなく、代わりにプラタナスの優しい幹が間に立ち、まだ若々しい少年たちの未来に、そのまっすぐな緑の影を落としていた。
 その幻のプラタナスの木立が戻ってきたのか、或いは互いに朋友なる哲人たちが談義を交わしたという古代ギリシャのイーリッソスの川縁に誘おうというのか、森は語り始めた。

 ――パイドロスは、『自分を愛してくれる人よりも愛していない者の方を愛するべきだ』という詭弁家リュシアスの書き物を胸にイーリッソスの流れに沿って歩き、ソクラテスに行き会う。ソクラテスは、パイドロスに、連れていけ、そして何処に座ればいいかを探してくれと言う。パイドロスは一際高いプラタナスを示し、そこに行こうと誘う。 

 ――ではそこに連れていってくれ。



『パイドロス』からの引用出典元:
 プラトン『パイドロス』副島民雄訳 (角川書店 『プラトン全集3』一九七三)

 

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