Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-2 小蝿の天使

 

[承前]

 そよと、冷ややかな風が騒いだ。
 通廊〔コリドール〕の外窗〔スライドクリスタ〕がすこし開いているらしい。
 湿った雪の馨りを載せて、白く通り抜ける風の方に、すこしばかり汗ばんだ顔を向けると、風と見えたものは隣室の男だった。
 いつドアを開けたものだろう、そんな音も気配もしなかったのに。こちらの様子を見咎めて話しかけてくる。ヒョロヒョロした体躯に薄汚れたベージュの耐寒防風運動衣〔ストリームブレーキングウェア〕がへばりつく。相変わらず幽霊みたい〔ファンティルッキング〕な男だ。尤も、きょうび、幽霊現象譚〔ファントゥズマテラー〕の類いには何処へ行っても事欠かないが。


 「どうなさったんです?」弱々しくビブラートのかかった細い声が言った。「幽霊〔ファンタ〕でも見たような顔をなさってますよ。よろしいんですか?」


 何を言っているのだろう。いつのまにか男はすぐそばまで来ていた。それなのにとても小さく見える。頼りなくユラユラして、触れれば今にも消えてしまいそうだ。


 どうなさったかはおまえの方だろう? 男の背景〔うしろ〕で通廊〔コリドール〕が、奥に向かって不平衡で不思議な斜面〔なぞえ〕をつくりはじめる。かすかな、変視症的〔メタモルフォプシック〕な歪圧が、空間を奇妙な幾何学〔ジオメトリク〕へとデフォルメしてゆく右回りの緩やかな螺旋回旋〔スクリュードライヴ〕。縒りがかかった紙面のように、廊下は、遠くなるに随って不自然に急速に狭く搾りこまれてゆき、手前では逆に弛緩して、やたらにぽっかりと曠しい間口を広げている。灰階調〔グレイトーン〕の、何もかもが薄っぽく煤んでいる虚淵〔ギヌンガガップ〕だ。
 そのなかでただ、窗〔まど〕の下の旧式の消化器だけがどす赤く醜い存在を主張している。
 白茶気た幻景のような朝の逆光に今にも融け入りそうな男は、ムンクの絵にでも出てきそうな腑抜けた風采をして、わけのわからないことを聞こえぬ大声で喚いている空間の大口の最央〔さなか〕に吹きっ晒し、そのかたちを縮〔すく〕ませていた。


 「まだ御無理はなさらない方がいいですよ……お出掛けですか?」


 男はふと訝しげな視線を落とした。そこには把手〔ノブ〕を握ったままその場処にこびりついてびくともしなくなった手があった。


 「え、ええ」
 咄嗟に男に向き直って後手に把手を隠す。
 痙攣や麻痺を起こしている訳でもないのに、どうしてか、離せば離してしまえるその手をますます緊〔きつ〕く握り締めていた。説明のつかぬ、うしろぐらいその偏執狂的な把握の下で、金属はもう熱く汗ばみ始めている。


 「お忘れものですかァ?」男は、何気なく身を乗り出して室内を覗きこみかけ……


 「あ」
ちいさな叫びがあった。

  ちいさな唸りを上げる何か黒い汚点〔しみ〕が、ドアの隙間から、男の鼻先をかすめ、こちらの脇をくぐり抜け、くらくらする軌跡〔シュプール〕を描いて、向こうの窗硝子〔スライドクリスタ〕に突き当たり、そこでちからなくパツパツ弾んでいた。


 「ほう、蠅のようですね」男が言った。「冬なのに珍しい……」


 「何処から入ったんでしょうかね。ここは確か……」


 「26階ですよ」男は言った。
 「何、どっからでも入り込みますよ。ビルなんてものは、案外隙間だらけですからね。大方、集中空調〔セントラルエアコン〕システムかなんかにいたんじゃないですか」


 「本物〔ライヴス〕でしょうか」眉を顰める。


 「盗視聴機〔ピーピングトム〕だとでも? ……どれ、ちょっと見てきましょうか」近づいていって難なくそれを捕まえると、男は笑顔を向けた。
 「どうやら生き物らしいですよ。それに珍しい四翅の変種〔ヴァリエ〕です。これは、そう、確か〈大王蠅〔ベルゼーブ〕〉とかいいましたっけ」


 「ベルゼーブ?」再び眉根を暗くする。とても嫌な処に引っ掛かる感じがその名の響きにはあった。


 「蠅の王です。悪魔の名から採ったらしいが、これは害虫じゃありませんよ。花の蜜を舐めるんです。幼虫は肉食で偏平虫〔ゴキブリ〕の天敵です。変異体〔ミュータント〕ですね」


 「退行畸型種〔レトロフォーマント〕じゃないんですか。蠅のくせに四翅だなんて……」


 「普通の蠅の方こそ退化したんですよ、後翅がね。いわゆる器官退化〔アトロフィ〕って奴です」男は言った。「それにこのダイオウバエも普通は双翅なんです。たまに四翅のものが生まれる。まあ、四葉の白詰草〔クローバー〕みたいなもんですね。尤も、幸運を運ぶという話は聞かないが……」


「同じ種〔アイソトープ〕なんですか」

 「ええ。でも四翅のものより、白子〔アルビノ〕の方が多く生まれます。魔物〔ジン〕の名前がついているけど、アルビノベルゼーブの翅は本当に綺麗〔エルフィ〕だそうですよ。虹色の光沢〔レインボーラッカー〕があるんです。四翅でアルビノのベルゼーブなんかは、さながら天使〔アンジェ〕といったところでしょうかね」

 「人造変異種〔バイテクリーチャー〕じゃないんですか? ぼくは全然知らなかったけど」


 「いえ、天然発生〔スポンテイニアス〕の新種らしいですよ。尤も、人工〔エルゴン〕ではないったって、全く人因派生〔レスポンサブルズ〕じゃないとは言えないですから、大差ありませんけどね」


 「よくご存知ですね」


 「ぼくは子供の時分、ちょいと小生意気な昆虫図鑑〔オタッキースピーキングファーブルボーイ〕だったんですよ」
 男は微苦笑した。
 「で、どうします? 何なら走査〔スキャン〕してみてもいいですよ。最近じゃ、随分と細精巧〔エルエスアイック〕な極微疑似体〔マイクロボット〕が造られてるって話ですし……」


 「いえ、結構です。逃がしてやって下さい」


 男は窗〔クリスタ〕の開いている処へ、蠅をそっと包みもってゆき、その通りにした。
 だが、こちらからは蠅は見えなかった。
 曇り埋めた空ばかりが、見えぬ蠅の行方を窗辺から身を乗り出して追う男のややそれらし過ぎる仕草〔ポーズ〕の向こうに白くかがやいていて、まるで外に出るや否や、黒かったその蠅の魔王が、男の話の白い天使の蠅に変わって、天に溶け込んでしまったようだった。


 すると、指がそれまで縛られていた見えぬ縄が取れたようにスルリと把手からほどけ落ちた。
 振り返ったドアのおもては、モスグリーンのくすんだ塗装に無数の細かい疵が走り、哀れっぽく貧相な様子をしていた。小さな覗きレンズの上には御定まりの部屋番が〈443〉と貼り付けられ、その他に何の変哲も飾りもなく、人の顔のように退屈で空っぽだった。


 視線を移すと、隣にも、その隣にも、同じように並び、似通うドアの眺めが単調に続いていて、突き当たりの遠い窗の一面にうすぐらく真っ白に塗り潰された真冬の空が何処までも一様に曇らせながら通 廊の片側をこちらまで戻ってくる。
 それは肌寒い、いやに生々しく肌寒い、埋めるような薄汚れた光となり、見窄らしい石や硝子の表面に霜のようにびっしり貼りつき、通廊を色蒼ざめた湿り気に浸していた。


 気付くと、さっきまでそこにいた男は、いつ部屋に戻ったものか、形跡〔あとかた〕もなく消えうせてしまっていて、ただ男が開け放しにした窗から冷たい風が吹き込んできているだけだった。


 窗を閉めようとサッシに手をかけたとき、その空模様を嘗て見たことがあると思う。
 あの空が追い付いてきていた。
 その朝も雪上がりの陰気な白さに埋まっていた。
 その雪道を通って帰ってきたのだ。


 雪にまだ眠る街、死んだように眠る街、女も、死んだように眠っていた。
 何故、あのとき目覚めてしまったのか。


 女は見知らぬ者のように見えた。黎明の青い光のなかで、まるで自分が知らない女に産み棄てられてしまったかのように思われた。
 未明のなかで全く独りぼっち、立ち去り、出発しなければならなかった。


 だが、何処へ? 雪道は天と同じ色に白暗く埋め尽くされ、天地の狭間も立ち消えて、合間〔あわい〕なく地続きにみえたが、その一様の白さのなかをとぼとぼと歩いているうちに、自分が何処から出発して何処に向かおうとしているのかもやがて分からなくなった。白い地図、殆ど白紙に近い、何も記されていない地図の上を歩いているようで、確かに足は間違いなく家の方に身体を運んでいるのだったが、心は白い雪の砂漠に迷い、さ迷いはいつまでも何処までも続いて終わりがないように思え、自分が本当は何処にいるのかさえ白く盲いて見えぬ想いがしていた。
 あの日、本当に帰りつくべき処に帰れたのかも今となっては曖昧だ。


 自分は見知らぬ土地に捨てられたのだと思う。
 空から捨てられたかのように思っていたのかもしれない。
 雪道をずっと歩いてゆけば、空に続いて雲のなかに帰れると、まるで催眠術にかかっているような足取りに連れ出されたようだった。


 捨てられたのはこちらだと思っていた。だが、実はこちらの方が女を捨ててしまっていたのだ。
青い衣の女、冬空のように深く青い、縹青色〔オリエンタルブルー〕の衣服をいつも着ていたあの女を。その日、女を失ったと感じていた。
 雪が女の姿を隠し、雲が女の色を埋めていた。


 けれども、女の方こそがおまえを失ってしまったのではなかったのか。