対人恐怖患者は「別人」を畏れる。
 「別人」は表象不能のもの、現実的には決してありえないもの、全くとらえどころのないもの、つかみどころのないもの、想像を絶する不可解なもの、接近不能のものだが、それにもかかわらず、それは人をつかんで離さず、逃がさず、或いは避けがたく迫ってきて、「今にもそこに」出現しそうになる、恐ろしい、妖怪じみた、魔性の人である。圧倒的な恐怖の魔力である。

 「別人」という強迫観念は確かにばかげたものだ。
 それは現実には決して対応物をもちえない。
 「あなたはまるで別人のよう」というところどまりで、その「別人」そのものが比喩を越えて現実のうちに現れでてくることなどありえない。
 それは現実寸前の手前のところまでのぼってくる「出るぞ出るぞ」というばけものの切迫した予感なのだが、ぎりぎりまで接近しても最後の閾を越え出てくることはありえない。
 それは現実のページをめくることもできなければそのページにみずからを書き込むこともありえない。
 現実化直前のスレスレのところで「別人」は追い払われ、無のなかへと弾き返される。
 スレスレのところで間一髪、人は「別人」との遭遇を躱す。

 「別人」は決して現実にはありえない。
 しかし、それならば何故そもそもそんなありえないものを恐れるのか。
 「別人」というものは現実には存在しないのに、「別人」への「恐怖」はどうしようもなくまたまぎれもなく現実の出来事なのだ。
 「別人」という観念を抜いては、それなくしては「別人への恐怖」を理解することはできない。
 「別人」はむしろまさに「恐怖」として「恐怖」のなかに展がり響き渡り、「恐怖」の奥底にその姿なき威圧的な現存を鳴り響かせている。
 「恐怖」において「別人」は現存していてそれをいなくならせることはできない。
 「別人」は「恐怖」となってこびりつく。
 心はそれに対して何もなしえず、「恐怖」へと「別人」の幻覚的な感触のうちへと崩れ落ちるのである。

 「別人」は確かに現実にはありえない。
 しかし、「別人」はその有無をいわせず、圧倒的に心に己れを押付け焼付ける印象の壮絶さにおいて、非現実的なものの現実を超える超現実的なリアリティの強度において、この「ありえない」の棄却の方位を逆転してしまう。
 現実にはありえない「別人」が現実をありえなくするのである。
 むしろ危機にさらされているのは現実の方なのだ。

 「別人」が恐ろしいのは、もしそれを見てしまったら、現実が一瞬にして蒸発消散して全てが滅び去ってしまうからこそ恐ろしいのである。
 現実が紙のようにビリビリと引き裂かれ、「別人」という絶対に存在してはいけないものの恐ろしい形相が黙示録的に現出してしまうとき、あらゆるものがその恥ずべき脆さを暴かれ、裁かれる。
 だから対人恐怖症患者は非現実の異形の顕現によって引き裂かれることから現実を守ろうとして、或いは現実に庇護を求めようとして、乳飲み子がその母に縋り付きつつ母を暴こうとする者から母を守り母を塞ぎ隠し匿おうと渾身の力を振り絞って母を己れの元に引き留めようとするように、偏執的に現実に獅噛付くのだ。
 彼は非現実的なのではなく、逆に過剰なまでに現実的なのであり、現実に固執し密着して、非現実に拏剥がされまいとしているのである。
 そこには非現実的なものに対する死物狂いの抵抗があり、現実を維持存続させようとする頑ななまでの現実主義的な意志がある。
 しかしそれが逆に非現実的なものを呼び覚ましてしまう。
 対人恐怖症患者は「別人」を空想しているのではない。
 空想しているのであればそれは思いのままに制御可能な筈である。
 彼は非現実的なものを制御することができない。
 コントロールを離れて、非現実的なものはみずから勝手に動きだし、非現実的なものを生きることが出来ない者に、そしてどこまでも現実的で非空想的に覚めた者でのみあろうとする者に、覚めた目にしか見えない悪夢として、その覚醒そのものに、眠り夢見ることの不可能性そのものに憑依くのである。

 「別人」は万物を暴き万物を裁く。
 万物をその終末=終端において暴露し審判するのだ。
 「別人」による最後の審判は、万物=現実の真相の暴露であり、その恥部=弱点である輪郭=末端をつかんで剥ぎ取り、存在者から存在を剥ぎ取って、彼が彼の浮上とともに伴って来た或る底知れぬ暗闇の深淵に――まさに「地獄」に突き落としてしまうからこそ恐ろしいのだ。
 現実が反転し転覆してしまう。

 ちょうどゲシュタルト心理学が知覚における形態の認知においていうような図と地の反転に似たことが意味の了解のレベルで起こる。
 ルビンの壷といわれる有名な反転図形は、見方によって壷に見えたり対面する二人の横顔に見えたりする。どちらかが図となって浮き上がると他方は地となって無のなかに消えうせてしまう。
 それは決して同時には見えない。
 どちらか一方が選別されれば自動的に他方は排除され無化されるというゼロサム的関係にある。
 壷の形と対面する横顔の形は同一の線によって描き出される。
 壷と横顔の形相はこの線においてぴったりと輪郭を一致させている。
 線は壷から見ても横顔から見てもその端であり限界である。
 壷も横顔もこの線において現勢化する。
 この線をつかんでわがものとした形相が他方を無化して自己実現し実体化する。
 線はこの意味で形相が現勢化するためにはそれと結び付かねばならない質料である。
 そこで壷が現勢化しているとき、壷は横顔を消してその上にあり、横顔を潜勢化しているといっていい。

 しかし問題は、壷と横顔は同じ輪郭形態を共有しているとしても、観念としては全く他方とは切り離されていて、その間にどんな共通項もなく、類比の統一もありえないということだ。
 壷は横顔を知らず、横顔は壷を知らない。
 両者は少しも似たところはない。
 それは全く類似性をもたない切り離された差異、互いに無関係で無関心な顔を背けあった両義性であり、異質なもの・見当外れなものの偶然的でデタラメな、交わりのない結婚であるという他にない。
 ミシンと洋傘が解剖台の上で結婚しセックスをする。この場合解剖台にあたるのが線だ。
 しかしシュルレアリズムのユーモラスで幸福な幻想とは違って、ミシンと洋傘の結婚はこの場合シリアスでアイロニカルで陰惨でグロテスクな強姦の光景となる。
 ミシンは洋傘を解剖台の上であるからにはまさに解剖してしまう。
 ズタズタに切り裂き、小さな肉片に変えて抹殺する。
 そしてミシンだけが存在するのである。
 洋傘は存在しないだけではなく、洋傘ですらなくなる。
 失われるのは現実存在だけではなく自己同一性と可能存在も失ってしまうのである。
 洋傘はミシンに食われてミシンになる。
 そしてミシンは洋傘のことなど完全に忘却している。
 ミシンは自分が洋傘であったことなど全く覚えていないだろう。
 ミシンははじめからミシンでしかなく、他のものが成ったものではないからである。
 即ち形相は己れ自身しか知らないし自己同一性にしか関心がないのである。

 ルビンの反転図形に話を戻してみよう。
 まず、線=質料は壷にも横顔にも中立的なもので、それはどちらでもなく何者でもないが、常に顕在化している。壷が顕在化すれば壷の形相の周囲に蒸着して壷を際立たせ、壷を描いて横顔を跡形もなく消去・抹殺する働きをする。
 横顔が顕在化すればその逆のことをする。