[承前]

 

 

 黙示録の不思議な獣の数字666を鏡文字にしたΡΡΡという幻想的なイニシャルをもつ男の物語を救世主イマヌエルの名をもつ男が更に逆回しにする。


 それはまるで鏡の国を舞台にして黙示録の獣とメシアとが永劫回帰して無限に終わらぬ殺人事件をめぐり、いつ決着がつくともしれぬ果てしのない形而上学的なハルマゲドンを戦っているかのような世にも不思議な光景である。


 レヴィナスのつくりだす逆回転の宇宙・逆回りの時計・逆転した物語は「イポスターズ」という表題をもっている。


 それは実詞化・基体化・様相転換・位相変換というように様々に翻訳されるレヴィナス哲学の根本概念を表す用語であるが、それは同時にレヴィナスの思考のドラマの独特の弁証法的場面転換の運動原理をもアナロジカルに言い表している。


 そのドラマは大雑把に区切って三つの主要場面へと単純化される。
 イポスターズというのはいわば三幕構成の劇的場面転換を伴う形而上学の劇であり、その劇の主人公である主体のその都度まるで別人のように切り替わる三つの貌(様相)の異質性であり、その貌=様相の分裂的劇変の蝶番となってそれを一つの劇の軸へと繋ぎとめて辛うじてその分解を防いでいる緊密に収斂した連結そのものであり、その軸への連結を支えに展開するドラマティックな思考の場面転換そのものである。


 この劇の主人公の名は〈実存者〉である。
 この名は六六六やイマヌエルと同じように終末論的で黙示録的なものである。
 それは〈人間〉を意味する。
 「〈人間〉とは何か」或いは寧ろ「〈人間〉はいかにあるべきか」がこの劇の基調低音をなす主題である。


 イポスターズの劇は三つの場面・三つのフェーズからなる。各々の場面はそれぞれ次のような問いかけをその主題にしている。


 (1)〈人間〉にとって〈存在〉は何を意味するか。
 (2)〈人間〉にとって〈自己〉は何を意味するか。
 (3)〈人間〉にとって〈他者〉は何を意味するか。


 この「何を意味するか」という問いは「それは真に思考の原理的なものたりうるのか」という価値判断の問いと裏腹である。
 それは言い換えれば第一哲学=形而上学の主題は何であるかという問いでもある。
 そこで三つのものはそれぞれが第一哲学の候補に挙げられる三つの学と三つの価値を言い表している。


 (1)は存在論としての形而上学であり、その価値は「真」である。
 (2)は審美学としての形而上学であり、その価値は「美」である。
 (3)は倫理学としての形而上学であり、その価値は「善」である。


 レヴィナスは第三の立場に最終的に軍配を上げる。そして第一と第二の立場を斥ける。
 それは〈人間〉の態度に優先順位をつけることでもある。
 弁証法的な用語でいうなら、(1)の即自的態度と(2)の対自的態度を斥けて、(3)の対他的態度を優先することである。


 彼の弁証法にはヘーゲルのそれのような即且対自的な止揚された同一性への綜合=共定立(synthesis)はない。単に他立=異定立(heterothesis)があるだけである。
 この異定立は(1)と(2)に同時に対立し反対する反定立(antithesis)であるともいえる。
 ヘーゲル的な弁証法の定立・反定立・綜合のトリロギー、キリスト教的な三位一体論をアナロジカルに下敷的に仮定=前提(hypothesis)したトリロギーはここにはない。


 またアリストテレス的なトリロギーである三段論法とも意味内容が全く違うものである。
 しかし、それにも拘わらず、これを大前提・小前提・結論という展開において類似するものとみることはできなくはない。ただしそれは奇妙な意味においてだ。


 (3)の結論において光り輝く「他者」は、決して思考がそれを前提しえぬものであるからこそ前提に置き換えられなければならないものを意味している。


 大前提と小前提は共に前提である。前提と結論は異なる。
 故に結論は前提から導かれてはならない。
 何故なら前提から導かれるなら結論は前提の内にあるのであって前提から脱出し超越しているものとは看做しえないからである。


 結論は前提に従属し内属するものではなく却ってそれを論破するような全く異なる定言判断でなければならない。まさに前提ではなくて前提とすべきもの・原理的なものが捜されているからである。


 結論はそれ自身が全く異なる思考の閃光的判断として前提の仮面の顔を論破的に切断している。
 この切断によって前提は大前提と小前提の二つの前提に分裂する。


 前提とは何か? それは仮面という意味での悪い意味でのペルソナである。
 仮面を破砕しない限り、真に下にあるものである素顔は顕れえない。


 イポスターズとは下に横たわるものとしての基体を元来意味する言葉である。
 イポスターズはペルソナの下に横たわるものでもある。
 というのはペルソナはイポスターズを翻訳し覆い隠した言葉であったからである。


 ラテン神学の根幹をなす三位一体論は父・子・聖霊の三つのペルソナの緊密な結合体である。
 しかしペルソナという語は仮面を意味する。
 仮面はその下に横たわる神の素顔を隠して人間から切り離し対面不能の神秘へと匿う表を覆うものである。その仮面を剥ぎ取らなければ神とは対面しえない。


 仮面の廃棄あるいは仮説=前提の棄却は、ヘーゲルとは全く違った意味でのレヴィナス弁証法におけるアウフヘーベンである。
 仮説=前提(hypothesis)を切断することによって偽善的(hypocritical)ではない真に下に横たわるもの(イポスターズ/hypostasis)である根本的なものを、仮言的(hypothetical)ではなく定言的(categorical)に定立すること。
 それは他者を仮言的他者ではなく定言的他者としようとすることである。


 レヴィナスの弁証法には綜合=共定立はない。
 彼の異定立はそれ自体が定言的で批判的である。
 それは批判的な他者の定立としての他定立である。


 それは定立(1)と反定立(2)を媒介的に合成して和解させるような第三項ではない。
 逆に定立と反定立のそのような妥協的な馴れ合いの綜合の瞬間にこそ覆い隠され殺されてしまうような第三者を意味している。そのような綜合は実は仮面(欺瞞)の癒着でしかない。


 一般にヘーゲルの弁証法は排中律(第三項排除)をもたないとされている。
 Aと非Aの間の矛盾対立を止揚して和解にもたらすために、Aと非Aの高次の同一性としてAであり且つ非Aであるような第三者が発展原理として要請され、Aの他者である非AはAの成長のための契機としてAに包摂されAとの共存態としてAの内に生きる。


 このときAと非Aは綜合的第三項であるA=非AなるBにおいて復活する。
 しかし実はそのような弁証法は排中律よりも悪辣な仕方で第三項を間引きしているのだ。