別人は自己の不可能性であると同時に他者の不可能性である。
別人は自己ではありえないがまた他者でもありえない。
それは自己と他者の二重の不可能性である。
だが問題はそれだけには留まらずより深刻な様相を呈する。
別人はたんに自己や他者ではありえないだけではなくて、却って自己をありえないものにし他者をありえないものにする。
それは自らを不可能化する不可能性(消極的不可能性)であるばかりではなく、他に襲い掛かって他を破壊的に不可能化する不可能性(積極的不可能性)である。
単なる自己や他者の不可能性であるのではなくて、それは自己を自己たらしめている自性、他者を他者たらしめている他性を不可能化する不可能性である。
別人は自己や他者といった存在者をその存在について存在論的に不可能にする不可能性ではない。
別人の開示する自己や他者の不可能性は存在論的な不可能性であるのではなく、存在論の不可能性であり存在論の限界である。
自己や他者が不可能になるのは、存在が不可能になるからではない。
自己や他者は存在している。存在することが不可能になるのではない。
自己であること・他者であることが不可能になるのである。
たとえ存在していても存在とは異次元的に何かであることができなくなる、より切実にありえなくなるということが起こる。
危機にさらされているのは自己や他者の事実における存在ではない。
存在を危機にさらすものとして存在論が語り得る最大の危機とは存在者の死である。
死は存在論的な意味における最悪の事態、存在論的悪であるに過ぎない。
しかし死は最悪の事態ではない。
死んでも死にきれぬことこそ最悪の事態である。
死は人格性・個体性を破壊しない。
それどころかそれに根拠を与え、それを完成するものである。
逆に死んでも死にきれぬという恥ずべき事態に死に損なっているものは、存在を失うことなくその人格・個体性を破壊されている。
別人はそのような超存在論的禍悪である。
しかし存在論的視野はこの死よりも悪い別人の悪を単に愚かしく透明に見過ごしてしまう。
別人は存在論にとっては透明人間に過ぎないので看過されてしまうのである。
しかしそれは別人が存在論的に無意味だからではなくて存在論が無意味で無能な役立たずに過ぎないからである。
* * *
現実に死ぬというよりも悪い死、存在者の存在が死ぬのではなく、存在者が存在するがままに死んでいるという苦い死がある。
その死こそが真の死であり、その死こそが死として問題にされなければならない。
その死の本質は殺人である。
人を生によって生きる者ではなく死によって生きる者に強制的に置き換える力がもたらす破壊は殺人としかいえない。
知を愛すると慇懃無礼に謙遜する哲学が無知の知へと傲慢に開き直るとき、その哲学は無を知っており無を愛しているに過ぎないことが忽ちにして曝露される。
その無ほど薄汚い雑巾はない。
それは世界を美しくするどころか、黒く汚すだけのものだ。
哲学者は往々にしてそのような愚かしい清掃夫である。
その瞳は黒く汚い。
無に、否定に黒く塗り潰されてしまっているので、ものがよく見えないのだ。
無を愛するような者は何も愛していないのである。
無を知っているような者は何も知っていはしないのである。
常に心掛けていなければならないことがある。
知を愛する者であろうとする以前に、愛を知る者でなければならない。
愛を知ることは知を愛することよりも遥かに辛く厳しいことである。
しかしそれを怠るならば、その者は己れの無知すらも言うほどには知り得ないことだろう。
無や否定に潰れた目でものを見る者は単にその目が節穴であるだけではなくて、世界を無や否定の黒い空虚にえぐり取られた凄惨な節穴に変えようとしているのである。
自分の目が潰れているだけではあきたらず、他人の目にも黒い無や否定の泥を押し付けてそれを潰そうとしているのである。
しかし節穴によってものは決して見えないのだ、ものは澄み切った瞳にしかその美しい姿を見せない。
人は思弁によってではなく澄んだ瞳を通して観照するのでなければ、ものの隠れない美しさを真には認識することはできないし、また、何が真の問題であるのかを洞察することはできない。
世界は美しい。しかし、この美しい世界は狂ってもおり恐ろしい所でもある。
多くの殺された死人が他者から人生を奪うために人生について根も葉もないことを説教して仲間を増やそうとしている。
それが現実である。
別人は別人を創るのだ。
別人は自己ではありえないがまた他者でもありえない。
それは自己と他者の二重の不可能性である。
だが問題はそれだけには留まらずより深刻な様相を呈する。
別人はたんに自己や他者ではありえないだけではなくて、却って自己をありえないものにし他者をありえないものにする。
それは自らを不可能化する不可能性(消極的不可能性)であるばかりではなく、他に襲い掛かって他を破壊的に不可能化する不可能性(積極的不可能性)である。
単なる自己や他者の不可能性であるのではなくて、それは自己を自己たらしめている自性、他者を他者たらしめている他性を不可能化する不可能性である。
別人は自己や他者といった存在者をその存在について存在論的に不可能にする不可能性ではない。
別人の開示する自己や他者の不可能性は存在論的な不可能性であるのではなく、存在論の不可能性であり存在論の限界である。
自己や他者が不可能になるのは、存在が不可能になるからではない。
自己や他者は存在している。存在することが不可能になるのではない。
自己であること・他者であることが不可能になるのである。
たとえ存在していても存在とは異次元的に何かであることができなくなる、より切実にありえなくなるということが起こる。
危機にさらされているのは自己や他者の事実における存在ではない。
存在を危機にさらすものとして存在論が語り得る最大の危機とは存在者の死である。
死は存在論的な意味における最悪の事態、存在論的悪であるに過ぎない。
しかし死は最悪の事態ではない。
死んでも死にきれぬことこそ最悪の事態である。
死は人格性・個体性を破壊しない。
それどころかそれに根拠を与え、それを完成するものである。
逆に死んでも死にきれぬという恥ずべき事態に死に損なっているものは、存在を失うことなくその人格・個体性を破壊されている。
別人はそのような超存在論的禍悪である。
しかし存在論的視野はこの死よりも悪い別人の悪を単に愚かしく透明に見過ごしてしまう。
別人は存在論にとっては透明人間に過ぎないので看過されてしまうのである。
しかしそれは別人が存在論的に無意味だからではなくて存在論が無意味で無能な役立たずに過ぎないからである。
* * *
現実に死ぬというよりも悪い死、存在者の存在が死ぬのではなく、存在者が存在するがままに死んでいるという苦い死がある。
その死こそが真の死であり、その死こそが死として問題にされなければならない。
その死の本質は殺人である。
人を生によって生きる者ではなく死によって生きる者に強制的に置き換える力がもたらす破壊は殺人としかいえない。
知を愛すると慇懃無礼に謙遜する哲学が無知の知へと傲慢に開き直るとき、その哲学は無を知っており無を愛しているに過ぎないことが忽ちにして曝露される。
その無ほど薄汚い雑巾はない。
それは世界を美しくするどころか、黒く汚すだけのものだ。
哲学者は往々にしてそのような愚かしい清掃夫である。
その瞳は黒く汚い。
無に、否定に黒く塗り潰されてしまっているので、ものがよく見えないのだ。
無を愛するような者は何も愛していないのである。
無を知っているような者は何も知っていはしないのである。
常に心掛けていなければならないことがある。
知を愛する者であろうとする以前に、愛を知る者でなければならない。
愛を知ることは知を愛することよりも遥かに辛く厳しいことである。
しかしそれを怠るならば、その者は己れの無知すらも言うほどには知り得ないことだろう。
無や否定に潰れた目でものを見る者は単にその目が節穴であるだけではなくて、世界を無や否定の黒い空虚にえぐり取られた凄惨な節穴に変えようとしているのである。
自分の目が潰れているだけではあきたらず、他人の目にも黒い無や否定の泥を押し付けてそれを潰そうとしているのである。
しかし節穴によってものは決して見えないのだ、ものは澄み切った瞳にしかその美しい姿を見せない。
人は思弁によってではなく澄んだ瞳を通して観照するのでなければ、ものの隠れない美しさを真には認識することはできないし、また、何が真の問題であるのかを洞察することはできない。
世界は美しい。しかし、この美しい世界は狂ってもおり恐ろしい所でもある。
多くの殺された死人が他者から人生を奪うために人生について根も葉もないことを説教して仲間を増やそうとしている。
それが現実である。
別人は別人を創るのだ。