別人とは何か。
 別人は「人を別ける」と書き、
 また「別れた人」とも読めることばだ。
 しかし、この「別れた人」は
 絶対的に別れた人であると同時に絶対的に別れられない人でもある。
 またこの「別れた人」は
 「分かれた人」とはなりえない「分からない人」であるともいえる。

 「分かれた人」は別人において分けられ、
 別人から分かれ出て、別人と別れて人と成る、
 つまりそれが「自分」であり、
 また多分、それに対応して
 「他分」とも言い得るものでもあろうような他者であり
 他人や赤の他人であり、見知らぬ人であり、
 身内の者であり、さまざまなわれわれ(割れ割れ)である。

 人はさまざまに割れて分化して人格化してゆく。

 人格というのは倫理的-道徳的な概念である以前に、
 言語的に分別された人称の様相のなかで
 まずもって発見されねばならぬ差異であり、
 言葉は悪いが、
 それなくしては人間世界がありえないような
 根源的で基礎的な「人種差別」である。

  *  *  *

 人称的世界は人格的世界を基盤づける
 さまざまに格付けされた様相的-美学的分節空間である。
 モダリティの次元はモラリティの次元に先立っているのである。

 主体はそこで根本的に対他関係として、
 つまり他者へのさまざまな距離の取り方として、
 対他的遠近法としてつくりだされている。

 一口に自他の分別といっても、
 この分別はその区別それ自体のなかに
 多くの距離の襞をつくるかたちで分節されている。

 自他の分別は〈間〉であり〈間柄〉であり
 〈間接性〉であり〈間の置き方・取り方〉である。

 それは単なる自他の認識論的切断の区別ではない。
 そのような区別はまさに単なる自他の間それ自体の切断であり、
 真空の差異であって、自他の関係性というのが全くありえないし、
 わたしは他者に全く話しかけるための言葉をもたない。

 他者は単に異なる存在者として
 わたしから識別されているだけであるなら、
 ものと同じであって、人間たりえていない。

 人を人たらしめるものは間である。
 間とは単なる物理的空間をいうのではなくて、
 豊かな情緒の空気に満たされた人間的空間のことをいう。
 間というのは関係性のことであって差異性のことではない。

 差異性というのは単なる内と外の区別でしかないもののことである。
 内部と外部、内面と外面、表面と裏面、深層と表層という
 差異の野蛮な二分法の包丁で
 粗野に知的に物事を割り切りすぎることには
 いつでも注意しなければならない。

 警戒を怠ると思考がよく陥りやすい虚無の陥穽に墜落することになる。

 深層と表層の間に断層を創ることは危険だし、
 内と外との間に遮断的な境界壁を創ることは
 真の世界を窒息死させることになりかねない。

 内部と外部は単に異なり違っているのではない。
 その間には不連続的差異あるいは不連続的距離があるのではない。
 内部と外部の間にはまさに間という中間のトポスがあるのであって、
 それが差異によって割り切られた傷を癒し、
 二つの川岸を橋渡す〈わたし〉という
 連続的差異または連続的距離を形成しているのだ。

 自他の人間的区別の差異は
 むしろ自他の関係性というべき
 非知覚的パースペクティヴをもつ尺度化された厚みのある空間なのである。

 自他の差異を異同の差異や内外の格差のような
 単なる差異と等置したりそれに基づいて考察するべきではない。

 内や外ではなくて、
 そのようには割り切ってしまえない間こそが重要なのだ。

 〈わたし〉というのは
 内と外とに単に分裂的に分割されている硬直的な球体ではない。
 〈わたし〉とは、
 自己(普通に主観とか意識主体とか自我とかいわれている自己存在者)
 ではなくて、
 自己と他者の間に成立する間主観性としての主体性=関係性なのであり、
 それは自己でもなければ他者でもない自他のさまざまな間柄、
 つまり〈わたし〉は〈あいだ〉なのである。

 間主観性という概念=用語は、間違えられてはならないので、
 はっきりと言っておかなければならない。

 これは共同主観性とか相互主観性とかとは全く異なる概念であり、
 むしろそのような共同性・相互性
 あるいは更に社会性とか
 安易に言われている関係性とかの
 たわごとめいた空疎な観念との混同を拒否しつつ
 痛烈に批判したいために提出されたものだ。

 間主観性はそれ自体が〈わたし〉なのである。
 それは実践的な概念である。

 それは自己と他者の共同体(われわれ)を
 〈わたし〉に先立つものとして前提していないし、
 また〈われわれ〉の共同性への内属や止揚をめざすものでもない。
 同時に自己と他者の相互関係を意味するものでもない。

 それは自己と他者をそれぞれ存在者として前提的に立てたうえで、
 自己と他者がどのようにお互いに
 規定しあったり関係しあったりするかという問題に
 間主観性の問題を置き換えてしまう。

 間主観性は自他の関係性であるとしても
 二つの主観の相互性の問題ではない。
 またそれは社会性や社会関係の側から規定されるべきではない。