存在なき純粋様相としての出来事の出来。
 われわれは寧ろその次元をこそ避け得ない。
 わたしがわたしであることは、
 存在論的問題でもなければ認識論的問題でもなく、
 まして社会的ないし倫理的な関係論的問題でもない。
 それらの超越論的考察には「超越」論が欠けている。

 寧ろ超越論的様相論としての美の形而上学が構想されなければならない。
 存在なき様相の超越論的出来事を通さなければ、
 主体性や人格性の問題を真に理解することは出来ない。
 〈わたし〉とは形而上学的主体であり、
 さもなければそれは美しい人生を創造的に生きることはありえない。

 寧ろ不毛なのは形而上学を批判したり
 あるいは、それを僭称したりするような
 存在論・認識論・倫理学・心理学・社会学の方なのである。
 それは学問という名の〈知〉の宗教に単に内属しているに過ぎない。
 実はそこにこそ人間からその主体性と形而上学の権利を
 不当に剥奪しようとする文化的権力の問題が隠蔽されているのである。

 〈わたし〉は形而上学的に創造された実体であるが故に
 主体的なのであって、
 存在証明をそれに求めることこそ
 端的にいって無価値でナンセンスでお門違いなのである。

 形而上学的なものだからこそ〈わたし〉には価値がある。
 〈わたし〉には存在理由など要らない。

 〈わたし〉は形而上学的実体である。
 それは真に実在するものである必要はない。
 寧ろ美しい虚構として、偽りなく理性的に
 その構成を解明されるべき美学的純粋観念なのであって、
 観念であるからこそそれを優美な仕方で表現しなければならないのである。

 さもなければ個性化はありえないし、
 人生は無意味であり生きるに値しない。

   *  *  *

 最も根源的で形而上学的な次元は
 存在でもなく自己でもなく様相の次元である。

 存在なき様相、主体も実体もない形而上学的絶無の真空、
 純粋様相の出来事の超抽象的な風の吹く次元から、
 存在を主体を実体を逆照射し、
 如何にしてそれらの観念が無よりも遥かに無きに等しい、
 未だ無すらもない超越論的次元において
 構成され創造されたものであるのかを示すこと、
 そのような超越論的形而上学は
 一種の神の美学のように
 純粋抽象的な思考実験を己れに課することである。

 それを通して存在・実体・主体の概念の
 意味と価値を問い直すことをわたしは企図する。