Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 4-1 そして全てが顕れる

[承前]


……あなたは顔を覆う。顔を覆ってさめざめと泣く。
 覆われたあなたの顔がわたしのなかにふたたび広がり、そしてわたしも覆われる。
 今、このときがふいに覆われ霞んで消え、ふたたび、今がいつなのかが曖昧になる。


 そして、ふと顔を手前に上げると、今目の前にまざまざとあなたがいる。
 そして、わたしはまだ娘のなかに、いや、わたしではなく、そこにはまだ娘がいる。
 娘がいて、わたしは彼女に塞がれる。


 娘のなかに、わたしはもういない。或いは、まだいないのかもしれない。
 わたしは透明な硝子の壁に手前を塞がれる。
 手を広げると、わたしの手は硝子の前に透明に消え、わたしはわたしの(恐らくは)まだいない世界を眺めている。


 ――母の胎にいたときのことを憶えているような気がする。


 あなたは微かに小脇を向いて、窗〔クリスタ〕 のおもてに手をそっと当て、硝子のむこうにしんしんと降りはじめた青白い夕闇に伏し目を投げかける。
 その伏し目は窗の外に映ってゆき、暮れ始めた曇天のやや不穏な雲の斑〔まだら〕のなかに現れていた。
 空は今にも泣き出しそうな夕立の予感を姙んでうすぐろく膨〔は〕れ上がり、眼下にひくく見下ろされる街並は、闇とも湿気ともつかぬ青紫色のしずかな洪水のようにいつのまにか溢れてきた奇妙な空虚に既にすっかり沈み霞んで、その朧げな最後のかたちを見失おうとしていた。
 あなたの口から吐息が漏れ、それは微かに硝子のおもてを白く烟らせ、《言葉》となって広がった。


 一瞬、白く濛々と溢れてくる温泉の湯気のような濃霧の幻覚が娘の目を覆った。
 ひとつの真っ白な心がそこに全てを覆ってひろがり、世界は白い洪水のなかに消え失せていた。


 それは本当に一瞬のことだった。


 白い闇はあなたの声と変わり、娘の耳に続く――すると再び世界はその気配を取り戻した。
 けれども何かすっかり違った空気の色に塗り変えられてしまったように、世界がそっくり異次元の宇宙のなかに置き換えられてしまったように、以前とは違う自分自身の異質な感触のなかに震えていた。


 世界を微震させているのはあなたの声だった。
 その声は限りもなく遠い処から、不可思議な広がりをもって宇宙を包んでいるのだった。


 それは小声だった。
 けれども声の奥底に何とも形容しがたい魔力のようなものが響いていた。
 その響きは深い海溝の底からやってくるように思え、そして全世界が大地のうえに堅固に支えられているという感触を失い、まるで全てが不可視の洪水の海に揺れる不確かな方舟に運ばれているような奇妙な不安に凍え震えていた。
 あなたの小声の摩訶不思議な力によって。声に宿る冷たい熱によって。あなたは言った――。


 母の胎にいたときのことを憶えているような気がする……。
 うすぐらく、塩辛い羊水は、涙でできた苦い貯水池のようだった。
 ぼくは悲しみのプールのうわべを漫然と漂い、誰かの遠くから嘆く声を聴いていたんだ。


 そう、遠くで誰かが泣いている……。


 それがぼくの聴いた最初の意味をもった音声であり、最初に知った感情だったんだ。
 その感情に呼ばれて、ぼくはやってきた。
 ぼくは、ぼくに先立つその誰か見知らぬ人の死を贖わねばならない。そんな風に小さい頃から思っていた。


 小さい頃、誰がそれを教えたのだろう――ぼくは物心ついたときにはもう上の兄が死んだことを漠然と知っていたんだよ。


 兄さんは乳を喉に詰まらせて窒息したらしい――よくある事故なのだけれども、ぼくはその死因を聞き知ったとき、とても奇妙な気がしたんだ。
 乳を喉に詰まらせるというのは、見方を変えればこれは溺死だ――兄は乳の海、母なる海のなかに溺れ死んだのだよ。


 あなたはそこで言葉を途切らせた。


 娘は自分の息がひとつの静かな衝撃によって全く同時に途切られるのを感じた。
 声にならない叫びが、娘のなかで弾け、白い爆発を起こした。
 あなたの、苦悩を堪えた、厳しく張りつめた仮面のような男の貌が、言葉が途切れると共に、ふいに緩んで、亡き子を慈しむ聖母のような微笑みが広がり、目許が何ともいえない優しい黒い光に潤みかけていた。


 それは驚くべき変貌だった。
 あなたはすっかり全くの別人の相を見せたのだ。


 全てが覆われた。全てがあなたに覆われた。そのとき全てがあらわとなった。
 あなたがわたしに現れたのはそのときであった。
 そして、わたしが生まれたのも、おそらく、そのときであった。
 わたしはあなたの顔から生まれた。あなたがわたしに顕したあなたの異貌がわたしとなった。
 このとき、わたしは初めてわたしを見た。
 そのとき、娘はあなたにわたしを見た。
 とすれば、このわたしとは(恐ろしいことに)実にまさしくあなたに他ならないものなのだ。


 ……ことによると、そうなのかもしれない。
 だが、わたしにはまだ、その素晴らしすぎる異様な思想は耐え難い。


 このとき程、あなたが女であったときはない。
 あなたは女装も化粧もしてはいなかった。あなたは素顔のままであった。
 けれども普段の素顔以上に、このときのあなたの顔は隠れもなく素顔の素顔をあらわにしていたのだ。


 普段の顔はすべて仮面であった。
 仮面が卵のように割れ、青い光がそこから吹きこぼれ、いちめんを燈明のように明るく照らし出していた。この不思議な光をわたしは確かに見たと思う。青白い、とても神聖なオーラとも後光ともつかぬものがあなたの全身からつよく発散され、空気の色を、海のなかにでもいるように真っ青に塗り替えていた。


 溢れ出したのは、あなたの心であったのか、娘の魂であったのか。
 娘の心の白い爆発から激しく噴きこぼれる繁吹きがあった。
 またあなたから吹きこぼれ忽ちすべてを限りもなく優しく抱き取るような青い海もまた押し寄せてきていた。白い水と青い水は一瞬にしてひとつの大きな奔流となってすべてを押し流し、大きな渦巻きとなってすべてをその深みへと引き込んでいた。


 娘は忽然と不可思議な海底に連れ去られていた。バプテスマの深みへと。
 その深みのなかで、頭まで浄らかなオーラの青に浸かり、溺れるように深くまですっかり沈みながら、彼女はそのことばを、あなたのことばを、全き水に浸って聴いた。
 まるで頭上に一個の聖句が囁かれるようにして。


 「溺れ死んだ」ということばを。


 それはまさに神のことばであった。奇蹟の発言であった。
 娘はその短い生涯の最後のときまで、この素晴らしい瞬間を忘れることはなかった。