Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 4-2 水のおもてに響く声

[承前]


 わたしもまたこのときのことを、そして何よりもこのときあなたが、一瞬、ほんとうに一瞬であるにせよ介間見せてくれた聖なる貌のことを永遠に忘れることはないだろう。


 あなたはほんとうに美しかった。だが、わたしが今もしみじみとその貌を思い浮かべるとき、胸をつよく撃つのは、その貌の神秘的なまでの美しさ、神聖さ、清らかさを凌駕するもの、あなたのその貌が抱えている大きな悲しみと大きな愛のつよく訴えてくるその真実さなのだ。


 娘はその貌のために不可思議な陶酔へと拉し去られてしまった。
 それは致し方ないことだった。


 彼女を満たした余りにも大きな歓喜の陶酔にはそれなりの訳がある。
 運命が彼女を把んでしまって、忽ち彼女は目が眩み、何も見えなくなってしまった。神秘の羽撃く力が真実の重い現存を凌駕し、彼女の溢れる白い心が、その真っ白な波濤の激しさで、下に横たわる深い海を、深く深く深みへと沈むにつれてその青の深さと静けさの濃さを増し、あなたのずっしりとした真実の重みへとのしかかるに至るもうひとつの海の厳存をすっかり覆い隠してしまった。
 彼女は歓喜の故にあなたの悲しみを見失ったのだ。 


 あなたは抱き締められるべきであった、そのときに。


 今、わたしはそのときにそうしなかったことを悔いる。
 あなたがかつて肩を震わせて泣いたとき以上に、あなたは持ち切れない程の悲しみではち切れんばかりだったというのに。
 そしてそうしてあげられさえしたなら、あなたはきっとあなた自身を抱き締められたでしょうに。


 忘れない、その日のことを、わたしは決して忘れない。
 わたしにとって何よりも美しい思い出――けれども、何よりも苦く、悔やまれてならない大きな過ちをわたしが犯してしまったとき。


 過ちを犯したのはわたしだ――娘ではない、わたしなのだ。それを娘のせいにはできない。このときばかりは、わたしは彼女と別人でしたといって済まされはしない。わたしはその瞬間から逃げ出せないのだ。いいえ、逃げ出しはしない。
 わたしはよろこんでこの罪科の苦い時に、苦い涙に結ばれよう。娘に代わって、わたしはこの咎を担わなければならない。あなたが兄の死の咎を引き受けたように、わたしも娘の咎を引き受けなければならない。


  *  *  *


 娘にとっては、だが、それは致し方のないことだった。


 わたしのなかに今、娘から残存してわたしを今でもつよく呼び寄せ続けている思念がある。
 真っ黒な闇に縁取られたひとつの光景がある。
 あなたの心の底の美しく優しい青い泉に、どんな泉が娘のなかで激しく共鳴してしまったかを見て、わたしはとても辛い思いがする。


 それは恐ろしい悪意にどす黒く塗り潰された怒りの泉だ。
 ああ、娘は、こんなに真っ黒な毒の泉をあなたの泉に混ぜ合わせてしまっていたのだ。
 光景を縁取る暗黒は憎しみの黒である。
 泉の滸に悄然と肩を落として、真っ黒な泉を見下ろしている少年が見える。
 少年は不可思議な重い陶酔に把まれて呆然としている。
 その少年に向かって周囲の闇が真っ黒な悪意と憎悪の牙を剥いて襲い掛かってゆく。
 闇は彼女の憎しみ、彼女の怒りに他ならない。


 そして同時にそれは少年の瞳を覆う暗黒の色だ。
 少年の盲目と絶望の色、無力と自責の重く辛い色だ――ああ、わたしは、もうひとつの咎をこのひとに対して背負う。まるで彼はあなたの影であるかのように、また、あなたが彼の影であるかのように、なんとあなたがたは奇妙に似通っているのだろう。また、何と不思議な仕方で結ばれてしまっているのだろう。


 娘は終生そのことを認めまいとした、あなたと丁度一枚のカードの表と裏のようにぴったりとその人が符合しているということを。


 その人の名はミノル。
 あなたと娘の、そしてこのわたしの――わたしたち三人の不思議な共通の兄さん、すべての不幸の源の名前、呪われた、悲しい、いとおしい、狂おしい名前。


 今、その泉をわたしが見つめると、次第に黒い闇が晴れてゆくのが分かる。
 憎しみの曇りが晴れるとき、わたしの兄さんの貌がやっと青い薄明かりのなかに現れてくる。


 わたしはその貌を見て本当に辛くなる。
 ああ、あれはあなたの貌だ――滸に立って、今、わたしの兄さんがその視えない筈の閉じられた瞳を見開いている――そっくりの目許、見間違いようもない、あれはあの時にみたあなたの瞳と同じ色の瞳、見分けのつかぬまでに酷似したそっくり同じの聖母の表情。
 二人はまったく同じひとだったのに、娘はそれが分からないでいた、そのことがとても悲しいのだ。


 わたしは耳を澄ます、兄さんが、そしてあなたが、悲しみのプールのうわべにじっと耳を欹てたように。すると聞こえる、確かに今も聞こえてくる。長く長く永遠に長い尾を引いて途切れることもなく続くあの不思議な声が。
 わたしたちを呼んでいる、呼びつづけて消えることのない、けれども、今にもかき消されてしまいそうな遠くからの女の声。泣き声のようにも、叫びのようにも聞こえる、女の、言葉にならぬ、殆ど旋律といってよい程の、つよく引っ張られた弦の鳴り響くような声がする。


 それは、あなたのお母さんの亡き子の死を嘆いてやまぬ悲傷の啜り泣きであるのか、それとも、わたしの小さなオフィーリアの水に呑まれてゆく断末魔であるのか、女の声の年齢は定まらず、その性質も定めがたい。


 だが、いま、わたしは思う、これこそ時のはじめより、暗い原初の海の上を漂い、果てしなくさ迷いながら、吹いて吹いて吹きやむことのなかったエロヒムの永遠の霊気の声、始まりも終わりもなく無限に続く創造主の聖歌、命の根源からの永遠の祈りの声であるのかもしれない、と。


 わたしはそれを聞く、この底深いセイレーンの歌声を、ひとつの聖音の詠唱を――。


 ――AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……。


 その叫びからきっとすべてが生まれ、すべてがそこに消えうせてゆくのかもしれない。
 大いなる魔法の音、その不思議な音色に耳を傾けて、凝然と、わたしたちは動けなくなる。


 あのとき、ミノルも池の滸で金縛りにあって身動きができなくなった。
 恐怖からではない。ミノルを縛ってしまったのは、オフィーリアの叫びの底に、聞くものを魅して動けなくする、余りに美しすぎるローレライの調べが響いていたからなのだろう。


 わたしの兄は、池に落ちた姉を、わたしと娘の小さな白髪のオフィーリアを助け出すことができなかった。


 身動きもできず、その視えぬまなこで水面を見守り、まるで姉の唖が彼に乗り移り、彼の声が姉に乗り移ったかのように、一声も発することなく、少女が叫びながら水に沈んで行くのを見下ろしていた。