夢野久作の『ドグラ・マグラ』と
 九鬼周造の『偶然性の問題』は
 同じ一九三五年に出版されている。

 そこには、
 戦後の実存主義がむしろ覆い隠してしまった、
 より一層形而上学的で悪魔的で地獄的な実存の
 底知れぬ恐怖に通じる深淵が荒涼と広がって
 両者を通底させているように私には思えてならない。

 その底知れぬ深淵は
 〈空く間〉としての〈悪魔〉の空間性といってよいようなものである。

 悪魔とは空間であり、
 間が空く中から悪魔が出てくるのだ
 というべきような問題なのだ。

 「間とは魔である」
 と対人恐怖症の患者が言ったという話を読んだことがある。
 そして他者との会話などに「間が空くこと」が
 その患者に「悪魔がいる」と思わせる程に
 深刻な「恐怖」を起こさせるのだという。
 これは「〈別人〉の恐怖」といわれている。
 〈悪魔〉とはその〈別人〉のことである。

 〈別人〉とは〈人を別けること〉であり
 〈別れた人〉をも意味する。
  それは〈人間〉の反対概念であるように私には思われる。

 〈空く間〉としての〈空間性〉は
 〈人の生きられる間〉としての〈人間性〉を詰めてしまったり、
 割り切ってしまったりする。

 すると人は「いき」が詰まったり、
 「いき」が出来なくなったりして
 死んで〈空しく〉なってしまう。

 九鬼は『「いき」の構造』を書いたが、
 「空しさ」の構造という
 それを裏側から殺しにくる
 何かしら残忍な重苦しいものが
 身にひたひたと迫ってきていたからこそ
 恐らくそれを書かずにはいられなくなったのではないか
 と思われるのである。

 「空しさ」とは「時が無い」ということであるように思えてならない。
 「間が空く」ことの悪魔性は
 「時が無い」という切迫をもたらして
 人の心に窒息的な息切れをもたらす。

 私はそこに権力の問題を考えざるを得ない。
 しかし、それは当時の天皇制ファシズムの問題には
 還元出来ないしするべきでもない。

 もっと捉え難く恐ろしい権力、
 〈悪魔が居る〉としかいえないような現実感を引き寄せなければ
 決してそれを理解出来ないような、
 形而上学的な権力の問題として私はそれを考えてみたいのである。

 九鬼のいう「偶然性の問題」は
 存在と無の〈間〉に人は如何にして生きるか
 という切実な問いと切り離してそれをみることは難しい。

 彼が偶然性として問うているのは、
 本質的にいって、存在と無の〈間〉、
 そしてまた、自己と他者の〈間〉の問題に他ならない。

 恐らくその〈間〉が空き過ぎると、
 存在も無も、自己も他者も、
 〈空〉なるものに通底されて空しくされてしまう。

 〈空〉と〈間〉は恐らく対立しているものである。
 それは〈死〉と〈生〉が対立するように対立しているが、
 〈空〉は恐らく〈死〉をすら死なせてしまうひどいもののことであり、
 〈間〉は〈死〉をすら生き生きときらめかせる美しいもののこと
 であるように思われる。

 〈間〉とは無では無いが、
 存在へとは転じないで〈美〉に転じるような
 無では無い無の〈花〉のことである。

 〈花(flow-er)〉とは
 本質的にうたかたを流れるもののことである。
 〈花〉は〈流花〉であり、
 それは〈時の流れ〉に解けゆくものである。

 〈時〉とは〈解ける〉ものであり、
 〈花〉は必ず〈実〉を結ぶものである。
 この〈実〉は〈時じくの実〉であり、
 〈時熟の果実〉である。
 私がそれにおいて意味したいのは〈実体(ousia)〉の観念である。

 〈現実〉とは何か。
 〈現実〉とは、その美しい〈果実〉としての〈実体〉が
 〈表現〉されている様相でなければならない。
 〈現実〉とは〈可能性〉の〈実現〉であってはならない。
 恐らくそのような〈現実〉の観念は倒錯しており、みにくいものである。

 〈現実〉とは〈実〉の〈現れ〉であり、
 〈花〉も〈実〉もあるものでなければ間違いである。

 間違った現実のなかで人は生きられない。
 それは〈現実〉ではない、〈悪夢〉である。
 
 〈悪夢〉とは何か。
 〈悪夢〉とは〈悪〉を〈夢見る〉ことである。
 それは〈おそれとおののき〉(キルケゴール)を生きることである。

 〈悪夢〉の本質は〈戦慄〉である。
 それは何かが夢見られることではない。
 〈悪夢〉とはむしろ〈夢〉を見ないことである。
 〈悪夢〉にあっては人は魘されるだけである。
 この「魘される」という出来事が
 〈悪夢〉の本質であるところの〈戦慄〉である。

 夢野久作は、この間違った現実としての〈悪夢〉について
 非常に深い認識をもち、
 〈悪夢〉とはむしろ〈夢〉を奪われることにあるのだ
 ということをするどく示している。

 〈夢〉を奪われるとは〈現実〉をも奪われるということである。
 〈悪夢〉とは〈悪魔〉としての〈空く間〉の本質である。
 それは〈夢魔〉としてある。

 英語で〈夢魔〉と〈悪夢〉は
 同一の語ナイトメア(NIGHTMARE)で言い表される。
 つまり〈夢魔〉と〈悪夢〉は同じである。

 〈悪〉を夢見る〈悪夢=夢魔〉とは
 〈空く〉または〈明く〉や〈開く〉を夢見るという状態である。
 それは〈夜明け〉を夢見ることである。

 何故なら〈夜明け〉は奪われて、〈夜〉のなかにいるからである。
 また〈扉が開く〉を夢見ることである、
 何故なら〈扉〉は閉ざされており、そのうえ何処にも見つからないからである。

 〈悪夢〉とは〈悪夢〉に閉ざされているということだ。
 〈悪夢〉は〈夢〉を奪うことによって、その奪った〈夢〉を見せるのだ。

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【関連文書】



著者: 大峯 顕, 大橋 良介, 長谷 正当, 上田 閑照, 坂部 恵
タイトル: 九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』







著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (上)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (下)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ








著者: 九鬼 周造
タイトル: 「いき」の構造 他二篇









著者: 九鬼 周造, 藤田 正勝
タイトル: 「いき」の構造