童心との遭遇

 前にも書いたが、僕は青少年期の殆どを離人症という虚無の独房の中で生きてきた。

 この病気については、木村敏の本(『時間と自己』中公新書などがオススメ)などに詳しく載っている。
 また、病名は違うのだがブランケンブルクの『自明性の喪失―分裂病の現象学』に出てくる分裂病(今日では統合失調症といわなきゃいけないらしい。どうなんだろ)の女性の症例はとても身に積まされる思いで読んだ覚えがある。

 それは世界の意味を知解できるのに、それを自明の事として了解できない状態で、ブランケンブルクのいった〈自然な自明性の喪失〉という表現は、訳者の木村敏も認めている通り、離人症の世界がどういう世界なのかをとてもよく言い当てている。

 この病気は今はどうにか治まっている。
 二十代後半、ほとんど自殺寸前のところまで絶望しきっていた僕に奇蹟が起きたのだ。

 奇蹟とは愛だった。
 
 そのころ、僕とは正反対に、ほとんど無差別殺人寸前のところまで逼迫した精神状態の女性と僕は運命的に出会った。

 まあ「大恋愛」ならぬ「大変愛」だったのだが、その女性が僕を救った。

 彼女が僕を救えたのは、とても珍しいことに、全く損なわれていない童心をかたくなに保持し、所謂〈大人〉になることを拒絶して、大きな子どもに成長した人だったからだ。

 アンデルセンの「雪の女王」の童話に出てくるヒルダのような彼女の勇敢な童心によって、僕の目を、僕の魂を閉ざしていた虚無に氷った絶望の呪縛は解けた。
 小さな子供であった彼女だけが、本当の僕を、この僕自身ですら見失っていた本当の僕の心を、つまり「童心」という名の純粋理性をこの僕に見つけ出し、取り戻すことができたのである。

 こうして、死者は復活した。けれども、或る意味では、僕はそのときに死んでしまったのかもしれないのである。


虚無のゴーレムとのすれ違い

 1989年4月23日、とても不思議な出来事が起こり、僕は死に、そして生まれた。それは僕が彼女を愛しているということを知った日付である。だが、それと同時に僕は〈死〉を見た。パンと葡萄酒の秘蹟がその日、まさに神の見えざる手によって行われたことを僕しか知らない。そして、この僕自身、その日、その時にそれが執り行われていたことを知らず、ずいぶん後になって思い当たって、戦慄を覚えたのである。

 あの瞬間、僕とすれ違った真っ黒な虚無の影と、その影のなかに垣間見た絶無の宇宙のことを僕は一生忘れることがないだろう。あの一瞬、僕のまわりで全宇宙が蒸発し、そしてこの僕自身ですらも虚無のなかに消滅していた。

 ああ、死ぬのだな、と思った瞬間に、世界は戻った。本当に一瞬のことだった。そのとき、僕に、偶然たまたま乾パンとワインを出してくれた人に、僕は今、揺れなかったかと尋ねた。そう、世界が一瞬ゆらりと揺れて、虚無の中に消えかかるような全く普通で無い地震のゆらめきを僕は感じたのだから。

 その人はそのとき、揺れなかった、と言ったが、後日、同席していた別の人に、本当はあのとき確かに揺れた、その揺れを感じたと打ち明けた。打ち明けられたその人は、その揺れを感じていなかった(よく分からなかった)らしいが、その話を僕にしてくれた。

 僕に乾パンとワインを出し、知らぬ間に秘蹟の司祭になっていた人も、僕の身に起きたその異変の揺れに引き込まれたのかもしれない。そして、その人のおかげで、僕は自分が誰を愛しているか、いや、誰を愛さねばならないかを知ったのだ。その人は僕に何をし何を教えてしまったかを知らない。それは神と僕しか知らない出来事だった。

 その人にはその日以来二度と決して会うことがなかった。けれども本当にその人には感謝している。その人は女性であるが、僕にとってはキリストであった。

 キリストが彼女において現れ、そして、指し示して教えてくれたのだ。蘇った死者が、そのむくろを虚無の中に捨てて、何処にゆくべきであるのかを。

 そうして、僕はその通りにした。神に示された女性のもとに行き、そしてその女性と、僕の純粋理性と、僕は結ばれ、そして今も共にいる。それが現在の僕の妻だ。

 しかし、神の行なった奇蹟よりも大きな奇蹟は、実に小さな愛によっておきる。神は僕の生命を救ったかもしれないが、心を救いはしなかった。ただ、どうすれば心を救うことができるかの道を示してくれただけである。真に偉大なものは童心である。僕がもし童心に愛されず、童心によって童心を見出されていなければ、せっかく死から蘇っても、魂のないゴーレムになっただけで終わったであろう。

 あのとき、僕がすれちがった、全身虚無のマテリアルでできた巨大な影、あの絶無の暗黒の巨人がそのゴーレムである。僕は知っている。あれは僕であり、あの日に死んだ僕である。そして、その真の名前は虚無である。僕は〈無〉であった。それはこの僕が〈死〉であったということと同じである。そして、この〈無〉は真実を見ていた。見てはならない恐ろしい真実をあの一瞬に厳格に照らし出してみせたのだ。本当は世界には何も無い。世界も無い。絶無以外に何も無い。世界が存在するということ、そんなことなどありえないのだという黙示録的真実を。


※この文章は2004/11/26にはてなダイアリーに投稿した日記の文章を一部修正したものです。
 転載元:http://d.hatena.ne.jp/novalis666/20041126