去年の末頃から、いきなりブログを開始した。

 直接的にはジャック・デリダが死んだこと、そしてまさかと思ったブッシュ再選が引き金になったのだが、その一方で、こんな裏事情もある。

 ブログを始めないとダメだと思ったのは、僕は手元にファイル置いておくと、かなりの長文書いても、それを読み返してみて、ちょっとでも気に入らぬ箇所があったり、また、もっとうまく書けるかなと思ったりなどすると、全文削除したり、ファイル自体を削除してしまったりする悪癖(こういう病気のことをフッサールのナイフ(現象学的還元)といいます)があるからだった。
 これは厳格な完璧主義からくる葛藤と、見えぬ他人(非人称の顔のない他者性)からの侵食的な脅威によるもの。そんな僕をはたで見ている女房は心を痛めていた。

 それはまるで書くというより、むしろ自分自身をこの世から削除しようとでもしているかのような鬼気迫る光景だ。そんな孤独な格闘の日々が何年も続いていた。

 たしかに、いつまでもそんなことばかりしているわけにはいかない。

それで、それを何とかして防ぐために、書くと同時に公表されてしまうので、そう簡単に消すわけにはいかなくなるブログやウェブ日記を始めることにしたのだ。
 何より自分で自分を削除する病気から自分の言葉を守るために始めたブログ。実はだから余り読み手の存在というものは意識も想定もしていない(そんなこと考える余裕の有る人が羨ましいです)。

 離人症はどうにか若い頃に治まったけれど、僕を蝕む虚無の病いはまだ治っていない。

 虚無は僕の内部から、僕に対して僕を削除し、僕を白紙撤回して虚無のブランクに消し去ろうとする白いエクリチュールとなって残っている。
 無論、それは完全にネガティヴなものだというわけではない。それは僕が考えている、思考し続けているということを意味するに過ぎない。

 ここに残された言葉は、そういった、虚無の侵蝕を過越し、絶えず繰り返す思考の光の掻爬を逃げ延びた言葉なのである。