《存在者(on)ということは様々に語られる。しかしそれはある一つのもの及びある一つの本性(physis)に関係してであり、同名異義的(homonymos)にではない。それはあたかも健康的なるものがすべて健康に関係しているのと同様である。》(アリストテレス『形而上学』第4巻第2章1003a 岩崎勉訳)

 これは、アリストテレスの有名な
 存在の意味の多義性、あるいは
 存在の多義的言表可能性に言及した箇所である。
 存在については多くの仕方で語り得る、
 ただし同名異義的にではなく。
 ちなみに同名異義的にいえば、
 「存在」にあたるギリシャ語「オン」とは、
 ヘリオポリスの太陽神をも意味してしまう語である。

 非存在(me on)はこれに対して様々な様相を取る。
 しかしそれは様々な様相にも拘わらず
 すべて一様同様に「ない」という一義的な語において言い切られる。

 それは否定が一義的でしかありえないからである。
 否定は非存在を一様に無化して無の闇の淵に投げ込む。
 しかしそれはある一つのものや
 ある一つの本性に即しているのではなくて、むしろそれに反し背いている。

 否定は一義的な響きをもつが、その一義性は非存在に感染してはいない。
 否定のもつ明瞭で厳格な一義性、
 存在のもつ類比的に統一された多義性に対して、
 非存在の様相的で無根拠な多元性は
 一義的でもなければ多義的でもなく無意義に接している。

 それはしかし完全に無の純然たる一性に還元され切ることはない。
 否定によって非存在は同じ無の名の下に置かれることになるのだが、
 無いということにおいて同じでも
 同じように無いのではないし、
 無は非存在を類比的に統一するような
 一つの共通した本性の通底力を欠いている。

 非存在は一でもなく多でもなく
 その無について同名異義的な多元的な様相である。

 それは寧ろ純然と無数無限に異なる
 不規則で不自然で相互に切り離された
 様々な断片からなるざわめく渾沌である。
 この渾沌の絶間無く変幻する影が無の月の鏡に映り込む。

 存在は多義的な意味をもつが、無は多くの異なる顔をもつ。
 存在の多義性は、いわば同一人物の同一の顔の上に
 様々に現れる豊かな表情であるといえるが、
 無の方は一個同一の顔というより顔を映す鏡であって、
 表情が変わるのではなく、
 その表情を乗せる土台の顔自体が変わるのである。

 表情のほうは寧ろ変化なき無表情に
 凍りついているといってもいいだろう。
 無においては同一の表情を浮かべた
 多くの別人の顔が絶間無く入れ替わるのである。
 そしてついにそこには誰もいない。

 鏡とは誰もいない空虚な場処だが、
 そこには同一の表情を浮かべた
 多くの異なる顔がその中に次々に浮かびあがるのだ。
 それは実在しない己れの虚像(非存在)を眺める虚像である。

 鏡は、それ自身は、
 全き透明性へと消えうせた無であり
 自己の純粋欠如だが、
 己れが無となることを通して
 他を非存在へと引き込む奇妙な平面である。

 人は鏡の前に立つとき、無のなかに滑り込んで非存在へと変容する。
 それは或る意味では存在するのを止めること、
 その居るところに居なくなって
 その居ないところに非存在し現前しはじめるということである。

 存在は現前することではない。むしろ非存在こそが現前する。

 存在はその同一の居場所に定位(position)され定立されているが、
 非存在はその居場所から切り離された非-場所の内に
 存在と同じものとしての自己を
 虚像的に現前させ提示(proposition)させるのだといってもよい。

 現前とは非存在の特性である、
 というより存在の非存在化こそが現前なのである。

 非存在は存在と無に於いて同一化するが、
 それは無によって存在を侵食することである。

 自己とは自己同一的なものであり
 その核心的意味は同一ということである。
 それは存在と非存在の分裂の統合である。

 ところで、冒頭に掲げたアリストテレスの言葉において
 《一つのもの・一つの本性に関して多義的である》というのは
 存在の類比的統一性を言い表している。
 存在の多義性は類比的に一なる原理的なもの、
 自然・本性・本質・中心に統合されてゆく。

 存在は多くの仕方で語られ得るが
 それは何か同じ一つの事柄を巡って話されているのである。
 つまり存在には表面には現れていないが
 その多様な現れを奥深く統制している
 一つの同じ伏在する本質がある。それが類比的一性である。

 存在の多義性は類比的一性と表裏一体である。
 一なるものが多くの意味の様態をもつ。
 生成変化の根底に同一物が存続する。
 多様なものが一なるものに取り集められる。
 一なるもの、同じもの、それが多様な展開をみせるが、
 それは一なるものが分裂したり消滅したりすることではなく、
 同じものが全く異なるものや全く他なるものに
 不連続的に変化してしまうことではない。

 生成変化・多様性は同一者の同一性において
 その身に起こる出来事であって、
 その同一性を失わせる出来事ではない。
 それは同一性に帰属し、
 それに内包され内面化されて
 同一性を内側から豊かにするような差異である。

 類比的一性は厳密で排他的な一性ではない。
 アナロジカルな一性は、
 デジタルでストリクトな一性とは違うものである。

 アリストテレスは類比的同一性を
 同名異義性の紛らわしさから区別すると同時に
 余りに厳密に過ぎる同一義性・一義性からも区別する。
 類比的同一性は、
 同名異義(homonyma)と同一義(synonyma)の中間に位置付けられる。

 同一義なものは共通の名前と共通の定義を有し、
 同名異義なものは名前のみ共通で定義が異なる。

 人間で言うと同一義的なものとは、例えば一人の同一人物である。
 同名異義とはその人物と同姓同名の別人である。
 それは同じ人間ではない。
 わたしは或る一人の人を呼び止めようとして彼の名を呼ぶと、
 思わぬことに二人の人が振り返る。
 二人は同名異人(homonym)であり別人である。

 いうまでもなくその一方は
 わたしが意図し目指した他者とは違う人であり、「偽者」である。
 他者には真の他者と偽の他者であるその別人がいる。

 別人というのは或る種の非存在である。
 それは類比的同一性とその展開である多様性に
 含まれることがありえない外部性である。

 それはいわば外側から類比的同一性=多義性を危うくするような
 溶解的な類似性、不吉な類似性を告げている。

 同名異人・同名異義的なものは
 殆ど全く差異とはいえないような差異であるが、
 それにも拘わらず差異であり人違いである。

 同名異義的なもの・別人的なものは
 類比的同一性=多義性を成立させるためには
 最初に排除しなければならない。

 それは単にオンの同名異義語である
 ヘリオポリスの太陽神や
 英語の前置詞の〈on〉や
 真言密教のマントラに出てくるオンとの紛らわしさを
 排除しなければならないというだけの話ではない
 (ところで、同名異義語が必ずや
 同一言語内にあるものだけを
 数えればいいという思考は安易である)。

 むしろ問題であるのは
 そのように言語的な同名異義性ではなくて、
 類比的同一性=多義性の秩序に何かしら根本的に背くもの、
 同一的でも多義的でもありえないような似て非なるもの、
 例えばこの別人のような非存在の排除が問題なのだ。